立山 裕二

おおさかATCグリーンエコプラザ環境アドバイザー

 

経営問題を環境の視点で分析し、環境問題および環境経営について、これまで2000回以上の講演を全国で展開。

『「環境」で強い会社をつくる』

『利益を生みだす「環境経営」のすすめ』

『キーワードで読む環境問題55』(総合法令出版)

『目からウロコなエコの授業』(総合法令出版)

             『あなたの成長が地球環境を変える!』(総合法令出版)

             『これで解決!環境問題』(総合法令出版)

            など著書多数。

                                           https://www.sbrain.co.jp/keyperson/K-2243.htm


原則毎月1日と15日に投稿します。

1日は環境経営、15日は地球温暖化
(気候変動)についてです。

よろしければ読んでみてくださいね。


SDGsコラム 第10回「気候変動(地球温暖化)について・その10」

SDGsコラム

 

2023年3月24日

 

こんにちは。ATC環境アドバイザーの立山裕二です。これまでエコプラザカレッジの講師として、また環境ビジネス情報の記事などを執筆させていただいておりました。

今回は、環境問題の解決に有効な「たとえ話」について書きたいと思います。

たとえ話の効用

これまで、「何を信じたらいいのか」「どう考えたらいいのか」「何をすればいいのか」について、たくさんのことを聞いてきました。 最初は危機感が出てきて怖かったのですが、だんだん安心感が出てきました。

今は、たくさんの人に伝えたくてワクワクしています。

次の課題は、「自分が理解したことをどうして他の人に分かってもらうか」ですね。

人それぞれなので、相手によって説明の仕方を変えるのがいいんでしょうが、できるだけ多くの人に分かってもらえるような工夫も必要と思います。

私は何かを説明する際、たとえ話をよく使います。特に環境問題については、イメージしにくい事柄をイメージしやすくするという意味で、 たとえ話は非常に有効だと実感しています。

いくつかを紹介しますので、自分でも創ってみてくださいね。

[たとえ話:その1]・・・・地球の有限性と砂時計

地球の有限性を実感してもらうには、「砂時計のたとえ」が分かりやすいと思います。
今、砂時計をひっくり返したとします。砂が流れ落ちています。 計ってみると、1秒間に5グラム(5ミリリットルと考えてくださ い)ずつ流れています。

ところで、このままのスピードで砂が流れ続けるとすると、この部屋が砂でいっぱいになるのは何日後でしょうか?

さて、今、部屋の体積を求めようとしませんでしたか?

部屋の縦・横・高さを掛け合わせて5ミリリットルで割る。算数の問題では正解ですね。

しかし、「砂時計の中に入っている砂がなくなれば、それで終わり」なのです。
「そんなの当たり前だ!」とか「バカにするな!」という声が聞こえて きそうですね。
しかし、現実を見てください。石油、淡水、鉱物資源、森林資源・・・・。 このままずっと存在し続けることはないと知っていながら、永遠に存在するかのように消費し続けているのではありませんか。

「今の状態が続くとすると」とあり得ない仮定を平然とやってのける経済学者も、「経済成長を永遠に続けなければならない」と錯覚している政治家や経営者も・・・・。

「砂時計のたとえ」を笑い飛ばすことができるでしょうか。

砂時計に「容器中の砂の量」という制約条件があるように、この地球 にも「資源量」「廃棄場所」「自浄能力」の有限性など、だれでも知っている「制約条件」があるのです。

[たとえ話:その2]・・・・生ゴミって何?

私は講演でよく「生ゴミが美しいと思う人はいますか?」と質問しますが、手を挙げた人は今のところいません。

反対に「生ゴミは汚いと思う人は?」と尋ねると、ほとんどの人が(何かウラがあるのではないかと疑いながらも)手を挙げます。

ここでイメージしてみましょう。

パーティーなどで目の前に「ごちそう」があって、みんなで「おいしい、おいしい!」といって食べています。
やがてパーティーが終わりに近づきます。

しかし、「ごちそう」 は食べきれずにたくさん残っています。

さて、みんなで「ごちそうさま」といった瞬間に、ごちそうが「生ゴミ」という名前に変わる。

どんな感じがしますか?
何か気づいたことはありますか?

「ごちそう」がなぜ突然、「生ゴミ」という名前に変わってしまうのでしょうか?

おそらく「生ゴミ」という名前を使った時点で「汚い」というイメージが湧き出てきて、捨てるという行為につながるのでしょう。

どうやら、多くの人は「生ゴミ」という言葉を聞くと、条件反射のようにこれらの「なれの果ての姿」を思い浮かべるようです。腐ってハエがたかり、悪臭がしている状態です。

しかし、そんなに汚いものならば、私たちは汚いものを食べていたことになります。
実際に「ごちそう」が「生ゴミ」という名前に変わった瞬間は、「ごちそう(ステーキはステーキ、ケーキはケーキ)」のままですね。

とにかく現状のままでは、「生ゴミ」という言葉を使うことで「捨てる」という行為を正当化してしまいます。あくまでも「捨てているのは 栄養、ごちそう」なのです。栄養だからこそ堆肥化できるのです。

[たとえ話:その3]・・・・雪は天からのゴミ

冬になるといつも思い出すことがあります。

以前、北海道の美深町(旭川と稚内の間)というところに講演に出かけた時のことです。

何と氷点下29°C。こんな寒さは初めてでした。この温度では少々踏みつけても雪が溶けず、まるで砂のような感覚でした。スッテンコロリンと転ぶどころか、摩擦ですべらないのです。また自動車の窓に六角形 の結晶がそのままの形でくっつくのを見たとき、涙が出てきました。

そのとき、気づいたのです。雪は天から降ってくるゴミだということに。辺りかまわず、すべてを真っ白にしてしまいます。

しかし、この雪というゴミは春になると素晴らしい水資源になります。 人間の排出するゴミも本当はこうでなければと思いました。事実、ゴミというのは資源そのものです。
ぜひとも有効に使いたいものです。

[たとえ話:その4]・・・・天国と地獄の食事

<地獄>という名札の出ている部屋の中。
ごちそうテーブルにはご馳走が一杯あります。

みんな長い使いにくい箸を持っています。

長い箸を持った人々はそれを振り回し、なかなか口に入れられなくて、いらいら焦り、怒っています。

隣りの部屋でも同じようにテーブルに溢れんばかりの一杯のご馳走があり、みんな長い使いにくい箸を持っています。

なぜか、人々はその箸を使ってニコニコ食べています。
よく見ると自分で自分の口に入れているのではなく、相手の口に互いに入れ合っているのです。こうすれば、みんなが食べられるし、そして互いに喜び、感謝し合えるのです。 部屋の入口には<天国>という名札がついていました。

有名なお話しなので、ご存知の方も多いでしょう。私は、このお話しを聞いたとき、涙が出るほど感動したのを覚えています。

ところで、皆さんのお箸の長さはどのくらいでしょうか?
そのお箸は、どこまで届くでしょうか?

家族までですか? 友人たちまでですか? 地域の人までですか? アジアまでですか? アフリカまでですか?
それとも、宇宙の果てまでですか?

偉そうなことを尋ねていますが、私は「アフリカまで届く箸を持っている」とはとても言えません。持っているときもありますが、つい短いお箸に持ち替えてしまうことが多いのです。

私としては、共感範囲を広げていくことで、少しずつ長いお箸がもてるようになりたいと思っています。

次の2つは、ビジネスマンや会社を経営している人に効果的なお話です。お父さんやおじいちゃんに伝えてみてくださいね。

[たとえ話:その5]・・・・廃棄物はお金である

私が環境経営でよく使う「たとえ話」です。
「環境を守るために廃棄物を減らそう」。確かに大切なことですが、このスローガンでどれだけの人が実行に移すでしょうか。

1千万円で資材を仕入れて製品を製造し、廃棄物が20%出た。 そして廃棄物処理コストが20万円かかった。

これはよくある話で、何ら疑問を感じない人が多いと思います。しか し「20%を捨てるということは200万円というお金を捨てていること」に気づかなければなりません。1万円札を1千枚仕入れて、200枚捨てているのです。そして捨て たお金に対して、20万円もの処理費用を支払わなければならない。

何ともったいないことでしょう。 この捨ててしまっている200万円を100万円に、そして50万円に減らしていくのは環境を守るためだけでしょうか。これは明らかに経営者・企業人の仕事ですね。

お金は寂しがり屋で、お金を大切にしてくれる人のところに集まるものです。廃棄物と称してお金をジャンジャン捨てておいて、「最近円高でちっとも儲からない」では少々虫が良すぎるのではないでしょうか。

私が環境経営の話をすると、「環境に配慮していくら儲かるのか」という質問が必ず出てきますが、実は、環境に配慮していないために、今この瞬間にもどんどん損をしている(お金を捨てている)のです。

私たちは、廃棄物という言葉を使うことで、捨てることを正当化してしまいます。

この世に廃棄物なるものは存在せず、すべてが資源であり、 誤解を恐れずにいうならば「廃棄物=お金」なのです。

同じビンや缶でも、工場の倉庫にある時は「資材」といわれ、路上や埋め立て地にある時は「ゴミ」や「廃棄物」と呼ばれるのはなぜか?

このような疑問を持つことが「環境経営」ひいては環境に優しい会社への第一歩です。

両面コピーは、資源の節約だけでなく「紙代が半分になる」。 消灯すると、エネルギーの節約だけでなく「電気代が少なくなる」。

容器包装リサイクル法、家電リサイクル法、建築廃材リサイクル法など、環境に関する法規制が目白押しです。近い将来、環境税(炭素税)も導入されるでしょう。
これらを個別にとらえると「法規制ばかりでコストが増大するばかりだ」という被害者意識に陥ってしまいます。

ここで例えば「容器包装リサイクル法で必要とするコストは、会社全体の廃棄物量を減らすことで捻出した利益でまかなう」と考えるのです。

これからも環境に関わる規制は、ますます強化されるでしょう。
もったいない精神を発揮し、「調達した資材(資源)をいかにして有効に使うか、また使い切る方法はないのか」をとことん考え、実践することが、利益を確保し、結果として「環境に優しい企業」になる最短の道 なのです。

蛇足ですが、コストがかかるというのは「コスト(利益)を受け取る側 が存在する」ということです。取り組みいかんによっては、ノウハウを販売するなど利益の源泉になり得るのです。

[たとえ話:その6]・・・・廃棄物を回収するコストとリスク

廃棄物を回収するには、コストがかかり、リスクも大きくなる。

こんな説明をよく聞きます。
しかし、これは「出てきたものをどう処理するか?」というハッキリや言って過去の発想です。

次のことをイメージしてください。

あなたは、ガケの近くで1万円札を手にとって眺めていました。
その時、突風が吹き、1万円札がガケの下に落ちてしまいました。
目をこらすと、100mくらい下の岩場に1万円札が小さく見え ます。

社長が言いました。 「きみ、あの1万円を回収しなさい」と。

あなたは応えます。

「1万円札を落としたのは申し訳ありませんでした。しかし社長、 あれを回収しに行くには危険(リスク)が大きすぎます。レスキュー 隊を呼ばないと無理ですし、場合によってはヘリコプターが必要で す。1万円を回収するのに何百万円もかけるのはどうかと思います が・・・・」

もっともらしい理屈ですね。 でも、1万円札を糸でつないでいたらどうでしょうか。下に落ちても、糸を引っ張り上げたらいいだけですね。

もし、「ガケの近くにお金を持っていかないこと」という規則を作っていたらどうでしょうか。

そもそも1万円札が落ちることはありませんね。

これが予防原則です。

「出てきたものをどう処理するか」から「出ないようにするにはどうするか」への発想の転換が、どうして必要なのか、そしてそれがリスクと コストの低減につながることがお分かりいただけたでしょうか。

以上のように、何かを伝える場合、「相手の理解できないことを理解で きるように話す(書く)」「相手のイメージできないことをイメージできるように説明する(描く)」ことが大切です。

そのためには、たとえ話がとても効果的です。皆さんも、ご自分なり の「たとえ話」を創ってみてはいかがでしょうか。

と口で言うのは簡単ですが、実際に創ろうとすると、かなりの知識と 理解が必要であることが分かります。

たとえ話の最大の効用は、“自分自身のために大いに役立つ”と言うことなのです。
あなた自身がしっかり勉強し、できることを実践し、分かってもらえるよう努力している姿は、必ず周囲の人に伝わります。

言葉だけで伝えようとしても伝わらず、生き様が伝わる。

伝えるのではなく伝わる。

いつかきっと、このことが実感できるはずです。


SDGsコラム 第9回「気候変動(地球温暖化)について・その9」

SDGsコラム

 

2023年2月28日

 

こんにちは。ATC環境アドバイザーの立山裕二です。これまでエコプラザカレッジの講師として、また環境ビジネス情報の記事などを執筆させていただいておりました。

今回は、バックキャスティングの具体例を書かせていただきます。

バックキャスティングを使って描いた私の未来(循環型社会)ビジョン

私は、2003年に2100年のビジョンを描き、拙著で公表しました。力不足ではありますが、現在までその実現に向けて講演や執筆活動を通じて世の中に働きかけてきました。

その後20年経ちましたが、どこまで実現したでしょうか。
ここにその一部を取り上げて、自己評価してみたいと思います(※印の部分)。

皆様も組織や自分自身の未来ビジョンを描き、時々見直してみることをおすすめします。

1.地球環境

地球の平均気温は最大5.8°C上昇するといわれていましたが、温室効果ガスの排出が止まったことや森林の再生が進んだので、2°Cの上昇で収まっています。

※パリ協定で、産業革命前からの平均気温の上昇を2°Cより低く抑え、1.5°C未満を努力目標とすることが掲げられました。
海面上昇は30センチ程度上昇していますが、心配された島嶼国の消滅は起こっていません。ただし、海面上昇はしばらく続くと見られており、ここ数十年以内に移住を余儀なくされるかも知れません。移民(環境難民)の受け入れ態勢は、数十年前から整備されています。

森林面積は産業革命前に戻っており、今でも1年間に日本の面積くらいずつ増加しています。
「このままでは地球全体が森林に征服されてしまう」というジョークがはやっているほどです。「砂漠という遺産を保護せよ」という声も一部で出てきています。淡水資源は、森林の再生とともに復活しました。オゾン層はもうだいぶ前に復活し、オゾンホールという言葉が辞書から消えました。

酸性雨は化石燃料の使用を停止した時点でストップしています。酸性化した湖も、以前の状態に戻っています。

生物種も自然の増減のレベルを維持しています。
残念なのは、絶滅してしまった生物種が、もう戻ってこないということです。

2.地球社会

2100年の地球の総人口は70億人。
※病気の蔓延や戦争以外で実現するのはなかなか難しそうです。

国という単位がなくなり、大陸ごとに州政府が置かれています。この州は、基本的に自立した地域(村)単位の集合で成り立っています。

社会の形態は、いわゆる『水素社会』。水を電気分解することで水素を取り出し、燃料
電池として活用しています。

※少しずつ水素社会に近づいている感じです。

ただ水素を取り出す際に、多くのエネルギーを消費するので段階的に調達手段を変えてきました。

最初は、廃止される原子発電所からの電力を使用していましたが、次第に火力発電→太陽光発電→風力発電と変遷しています。
最近では、水の中に光触媒やデンドリマーと呼ばれる物質を入れ、そこに太陽光を当てるだけで水素が得られるシステムが完成しています。
※光触媒を使う水素製造法がかなり進歩してきました。

発電手段は、燃料電池が主ですが、風力、太陽光、地熱、海洋温度差、潮汐(波力)など、その地域に最もふさわしい発電システムも併用されています。
※再生可能エネルギーも進化してきました。

貿易の輸送手段は、基本的に「海水を燃料とする船(燃料電池駆動船)」です。

※日本初の燃料電池船「長吉丸」が、2015年8月5日に長崎県五島市の椛島沖で実証航行が披露されました。海水から分離した水素ではありませんが、さらなる進化を期待します。
航行中に海水を淡水化しながら船底に引き込み、この水から水素を取り出すというものです。燃料を積み込むことがないので、船体を極限まで軽量化することが可能になったのです。

旅行の手段は、水上では「燃料電池船」ですが、陸上では「燃料電池列車」が基本です。短距離の場合、平たん地では自転車が、起伏のあるところは電気自動車が使用されています。スローライフに価値をおいているので、よほどの緊急事態が起こらない限り、飛行機を使うことはありません。
※2022年現在、実用化はされていませんが、試作車は走っています。

3.日本の環境

山には緑が輝き、様々な動植物が強固な生態系を創り上げています。広葉樹、針葉樹を問わずその地域に最も相応しい樹木の種類とその組み合わせ」が植林の際に配慮されています。

河川は自然工法が施され、もとの蛇行に戻されました。湿地帯、竹林、防水林など洪水対策も万全です。洪水を阻止するのではなく、活用しようとしています。万一の場合の防災システムも完璧です。

自然のダムである森林地帯が甦ったので、人工のダムがほとんどなくなりました。

※日本初のダム解体が平成24年度から29年度まで6年をかけて実施されました。どの川にも汚水が流れ込むことがなくなったので、水質が改善され川底がはっきり見えます。

自浄作用が妨げられることがないので「下流ほど水がきれい」という川本来の姿が戻ってきました。魚や水生生物の種類も豊富です。

海は本来の美しさを取り戻し、豊富な生態系が戻っています。そして山や川とともに水の循環と食物連鎖をスムーズなものにしています。

温暖化で30センチほど水位が上昇し、砂浜が浸食されていましたが、最近は収まっています。

森林の復活とダムがなくなったことで、河川の上流から砂が補充されるようになったからです。

4.地域社会

子供の笑い声が至るところから聞こえます。みんなで声を合わせて歌っています。どろんこ遊びで顔が真っ黒。

遊び道具は自分たちで作ります。建築で余った木の切れ端などでユニークなものを作ります。まるで芸術品!

一家団らんが大原則です。仕事をしていても、食事の時間にはみんな帰ってきます。たくさんで食べる方が楽しいので、特に夕食は誘い合って誰かの家に集まります。みんな自家製の料理を持ち寄ります。

工業については、臨海部だけでなく内陸部でも行われていますが、やはり上空から工場らしきものは見えません。21世紀の初めにほとんどの工場をすべて地下に移して、地上部を緑化してきました。その成果が現在の森林地帯というわけです。

例外的に、どうしても地上になければならない工場だけが人が地上に造られたのです。よく見ると「お城のような美しい建物」が点在していますが、それが2100年の生産工場の姿なのです。

場は可能な限りクローズドシステム化されています。
使用する原料はすべて地上の森林から調達しています。

計画的に間引き材、落葉などを回収し、アルコール(バイオマス資源)や化成品・医薬品・食品の原料として使用するのです。最後に残った水蒸気を含む水を使い、燃料電池用の水素を作ります。

工場内から分離されてきた有価物は、他の工場または農業・牧畜業・水産業の資源として活用します。

地域単位で見ると、有害ガスはもちろん二酸化炭素や水蒸気でさえも一切排出さない「真のゼロエミッション」を達成しています。

工場など建築物を造る際の資源は、かつて大都会といわれたところに大量に蓄積されている「都市鉱山」から調達します。

20世紀から21世紀初めに建設された「超高層ビル群」「高速道路」などには、高い純度の鉄・金・アルミニウムなどが豊富に存在しています。再生困難と思われていたゴーストタウンが「優良鉱山」として甦ったのです。

また、更地が有機栽培農地や森林地帯として再生されており、この無人地帯(都市鉱山)もやがて緑豊かなコミュニティに生まれ変わることでしょう。

自然エネルギー発電所は、原則としてコミュニティ内には造られません。比較的大規模なものは近辺の海上や山林地帯に設けられますが、個人用については、自宅で様々な方法により自家発電します。

比較的多く使われているのは、「貯めておいた雨水から水素を取り出す」という燃料電池発電です。

交通手段は徒歩と自転車が中心です。車は電気自動車であっても、コミュニティ内に入ることはできません。

以前、障害者用専用道路が設けられていましたが、使う人がいないので今は低床式路面電車(LRV=LRT)、または燃料電池バスに変わっています。

コミュニティは家族、必ず誰かが手を貸してくれるので、障害者が一人で運転する必要がないからです。
ちなみにこのLRVと燃料電池バスは、歩くスピードよりも遅いのが特徴です。

食べ物のうち、とくに生鮮品は「身土不二」を基本としています。
つまり「食べ物に宿っている風土と人体に宿っている風土が一致すればするほど体によい。だから、その地域内で採れたものを食べよう」ということです。

当然、無農薬・有機栽培です(この言葉は2010年頃に-当たり前になって-死語になりました)。
※今、2023年ですが死語になっていませんねぇ。

しかも自給自足体制ができあがっているので、新鮮な幸を食べることができます。

気候条件により、すべてを自給自足で賄うことができない場合は、できるだけ近くから調達します。

鉄道に使用する電源は、路線区間によって1番確保しやすい手段で調達します。地熱発電が相応しい区間は地熱を、風力に向いているところは風力を使用するということです。

これによって遠隔地から送電する際のエネルギーロスを防いでいます。

高速道路は存在していません。車が移動する場合は、カーフェリーのように「車ごと貨車に乗せて」輸送します。

※こういうのをピギーバック輸送というそうですが、ずいぶん前からあるのですね。ただ日本では平成12年に廃止されました。

欧米のようなトラクターから切り離したトレーラーを積載する形で復活するといいのですが・・・・しかも燃料電池で・・・・。


SDGsコラム 第8回「気候変動(地球温暖化)について・その8」

SDGsコラム

 

2023年1月29日

 

こんにちは。ATC環境アドバイザーの立山裕二です。これまでエコプラザカレッジの講師として、また環境ビジネス情報の記事などを執筆させていただいておりました。

今回も、前号に引き続きSDGsの重要な課題でもある「気候変動(地球温暖化)」について書かせていただきます。

ただし、前回同様、気候変動にこだわらないことをお断りしておきます。

目からウロコのエコ活動

前号の説明は、少し理屈っぽかったですね。でも、私の願いを理解してくれてとても嬉しく思います。

子どもから大人まで、一緒になって考え、実践することが環境問題を解決するための重要点です。どんな活動でも実践し続けることが成功のポイントです。

ヒントになるかどうかは読む人次第ですが、なるべく楽しみながら継続できるような具体例を紹介してみたいと思います。
なお、「こまめに電気を消そう」とか「分別しよう」というような基本的なことはそれぞれの専門書に譲り、ここでは「目からウロコが落ちるような」「しかし、考えてみれば当たり前のこと」を取り上げています。

これまでに書いたこともいくつか登場しますが、とても大切なことと考えてのことです。すでに知っているという方も、真っ白な心で読んでみてくださいね。新たな発見があるはずです。

1.どちらが地球に優しい?

1998年に、拙著『だれも教えなかった環境問題』(総合法令出版)で「お皿に付いたマヨネーズを水で洗うのと、ティッシュで拭き取るのとではどちらが地球にやさしい?」という質問に対して、「どちらでもなく、お皿をなめたらいい」と書きました。
そして、「AかBかの二者択一の議論になっていると気づいたら、視点を変えてCとかDのより本質的な答えを見つけよう」と提案しました。この本は、環境本には珍しく1万部以上売れたので、いろんなところで紹介されて、思いのほかこの発想が広がったことがあります。
実は、この他にもたくさん「目からウロコのエコ(ちょっと変わったエコ)」があります。おじいちゃんやおばあちゃんがしていた昔ながらの知恵や、小さな子どもが何気なくしていたハッとする方法などを紹介しています。
おそらくお読みになっている過程で、いろんな懐かしい方法を思い出すと思います。そんな時は、積極的にブログに書いたり、新聞に投書するなどして、世の中に知恵を広げてくださいね。

2.カレー皿の究極洗浄法

以前、テレビで水の汚染問題についての特集があり、(当時)7歳の息子と5歳の娘と一緒に見ていました。その中で、「カレーライスの究極洗浄法」が紹介されていました。

  1. 残ったカレーをテレホンカードでこすり取る、
  2. 残ったご飯カスを水でふやかし、分離したご飯をされ濾過する、
  3. スポンジに少量の洗剤をつけてお皿を洗う、

というものでした。

私自身は「あれっ?」という感覚でしたが、息子と娘がどう反応するかが見たくて、何も言わずにいました。以下が、そのときの2人の反応です。

「何でプラスチック製のテレホンカードを使うの?ほかのモンでもいいんのちゃう?(ほかの物を使ってもいいのでは?の大阪弁)」、「お皿をなめたらいいやん」、「パンでお皿を拭いて、そのパンを食べたらいいやんか」。

これを聞いて、「なかなかやるじゃないか」と思いましたが、少し恥ずかしさを感じました。

というのは、私自身がカレーを食べる際にいつもしていることだからです。さすがに人前でお皿をなめることはありませんが(家族しかいなければなめますが・・・・子どもたちはそれを覚えていたのでしょうか????)、パンがないときは指でこすり取ることはしょっちゅうです。しかも鍋に残ったカレーもきれいに平らげてしまいます。もちろんティッシュでもフキンでもなく、指を使って・・・・。

ところで、番組を見ていて、「捨てた食べ物イコール汚れ」と表現していたことには、少々がっかりさせられました。捨てた食べ物は栄養であり、汚れではありません。そうでないと、私たちは「汚れたものを食ていた」ことになります。
捨てた食べ物が「腐敗するなどして結果的に」水を汚すことになるのです。
捨てた直後は、「肉は肉」「ケーキはケーキ」「マヨネーズはマヨネーズ」「カレーはカレー」です。つまり、「ご馳走」であり「栄養」そのものなのです。

栄養はいのちを育むもの。その栄養を捨てることで結果として水が汚れ、いのちを奪う。この矛盾に気づくことが大切だと思います。ぜひ、このことを取り上げた番組を創ってほしいものですね。

嬉しいことに、この番組では「食後のお茶碗にお茶を入れる→たくわんで洗って付着しているご飯やおかずを洗う→そのお茶を飲む」という昔ながらの方法も紹介していました。栄養も水も無駄にしない。これは素晴らしいことだと思います。番組の名誉のために、ここに付け加えさせていただきました。

ただ番組では、カレーを究極の洗浄法と紹介していましたが、私はこちらの方が究極だと思います。順番が逆だったら、完璧だっただけに少し残念です。

3.究極の「ペットボトル洗浄法」

「ペットボトルを回収する際には、よく水洗いすること」という行政の指導に対して、「面倒くさい」、「もったいない」とか「水洗いすることで、かえって汚水を流してしまう」という意見があります。

一方で、「洗浄しなければ腐って悪臭を発する」、「伝染病の原因になる」ことがあり得ます。
皆さんはどう思われますか?

ここでとっておきの(当たり前の)方法をご紹介しましょう。
それは、「たとえばジュースを飲んだ後のペットボトルに少量の水を入れ、よく振ってその水(薄いジュース)を飲む」ということです。人間浄水器を使おうという訳です。もちろん牛乳パックでも同じことです。

実は、この方法は、息子が4歳の時に実際に行った方法なのです。息子はいとも簡単に「水を汚さない」「ジュースを残さない」「栄養を無駄にしない」「ペットボトルを洗浄する」ことを同時に達成してしまったのです。

当たり前のことのようですが、私はそれまで恥ずかしながら気づきませんでした。素直に息子に頭を下げるしかありませんでした。

息子はもちろん「環境を守ろう」としたわけではありません。ただ、いやしかっただけなのでしょう。ひょっとすると「いやしさが地球を救う!」のかもしれませんね。

このようなアイデアは、子どもほどよく思いつきます。子どもから学ぼうという姿勢も非常に大切です。

ただし、ペットボトルや紙パックではなく、リターナブルびんが望ましいことは言うまでもありません。
甘いものの取りすぎにも注意しましょう・・・・念のため。

4.納豆のトレイ洗浄法

タレや醤油のついたネバネバは、かなり洗いにくいですね。
そんな時、少量の牛乳を入れて、よくかき混ぜ溶かします。豆乳なら、なお良しです。

「それをどうするか」ですって?

もちろん飲むんです。これがけっこう美味しいのですよ。
そして、飲み終わったら、少量の水を加えてかき混ぜます。また、それを飲みます。
牛乳分がなくなるまで、これを数回繰り返します。

後は自然乾燥させて、回収箱へ。やってみる価値ありますよ。

これに関して、「納豆菌で水を浄化するような番組を見たことがあるのですが、油のように環境を汚染せず、かえって排水を浄化してくれるのなら、普通にゆすいでもいいのではないでしょうか」という質問がありました。

もし廃水管内に納豆菌が生育できる環境があればいいのですが、水道の塩素や洗剤によって死滅してしまう可能性が強いと思います。しかも納豆菌で廃水を浄化する場合は、それなりの条件と設備が必要です。
それと、タレや醤油をかけて食べる人が多いと思いますが、水洗浄によってこれらが流出し、環境に負荷をかけてしまうことになります。

そんなわけで、私は水でゆすぐことを避けています。ただし、もちろん人に押しつけることはありませんので、ご安心ください。

このようなアイデアをみんなで考えることをお奨めします。

5.エアコンの設定温度は初めが肝心

ある冬のことですが、「暖房温度を官庁は19°Cに設定するように」という政府のお達しがありました。そのとき公務員から「(19°Cでは寒くて)つらい冬になりそう」との声が上がったそうです。

さて、そもそも19°Cって、寒いですか?
寒い冬から抜けた春先だったら15°Cあれば「ポカポカ陽気」です。暑い夏→暖かい秋→ほんの少し寒い晩秋→暖かい初冬。この流れが寒い冬を迎えたとき、一層寒く感じてしまうように思います。

ここでポイントは「晩秋」の過ごし方です。ここで過剰な暖房をしてしまうと、19°Cでも寒く感じてしまいます。夏の19°Cは寒すぎますよね。体感温度は、周囲の環境(温度・湿度・風速)などに大きく作用されるものなのです。もちろん地域によって異なりますが、初冬の時期をできるだけ暖房しないで過ごすことで、真冬の15°Cがとても暖かく感じるはずです。

そもそも「頭寒足熱」という言葉があるにも関わらず、わざわざ電気を使って(電気代を費やして:エネルギーを使って:資源を消費して)能率を悪くすることはないと思うのですが・・・・。

私の経験では、頭の付近で15°C、足もとで18°Cくらいが一番能率が上がるようです。一説によると、記憶力は5°Cくらいが最高で、21°Cになると一気に落ちるとか。確認はしていませんが、何となく分かるような気がします。もちろん夏も同様に、暑くなり始めた頃にできるだけ設定温度を上げておくか、エアコンを使わないでおくと、後々の省エネにつながります。
何ごとも初めが肝腎ですね。

6.自分で停電・断水日などを決める

夏至や冬至に「キャンドルナイト」というキャンペーンが行われています。「(夜の2時間程度)人工の照明を消して、ろうそくの炎を灯して心豊かな時間をすごそう」というものと理解しています。ただ私としては、もう少し楽しみたいので次のようなことをして遊んでいます。

月に1回とか季節に1回とか定期的に、今日は「停電の日」「断水の日」「ガスが出ない日」と決めます。もちろん複数決めてもOKです。
例えば停電の日であれば、丸一日、あるいは数時間くらい電気を一切使わずに生活してみるのです。私はまだまだホンのたまにしかできていませんが、これから少しずつ機会を増やしていきたいと思っています。実施するために話し合いをするので家族団らんの時間も持てて、案外楽しいかも知れませんよ。

7.「まにあってます」のススメ

これは友人が発案したアイデアです。
身の回りを見渡すと、「まにあっているもの・こと」がたくさんありますよね。私たちは贅沢に贅沢を重ねてしまい、それが当たり前のような時代になってしまったようです。

『足るを知る』こころ。まさに『まにあっています』の神髄です。「モッタイナイ」に続いて世界に発信したい言葉です。

「マイカーいかがですか?」・・・・「自転車で、まにあってま~す!」
「クーラーいかがですか?」・・・・「うちわで、まにあってま~す!」
「レジ袋をいかがですか?」・・・・「風呂敷で、まにあってま~す!」

消費の衝動に駆られた時、「まにあってま~す!」とつぶやくと効果てきめんです。まずはお試しあれ!

温暖化を防止しようと呼びかけると必ず出てくる「できない理由や言訳」・・・・「完全に、まにあってま~す!」

8.冷蔵庫は隣のスーパー

ある知人の家には冷蔵庫がありません。夏でもまったく困らないそうです。知人いわく、「ボクの冷蔵庫は隣のスーパーだ。必要な時は取りに行けばいい(買いに行けばいい)」。
何とそのために、スーパーの隣に引っ越してきたとか!

エコって、奥が深いですね。

9.鉢植えのケナフをスダレ代わりに

これも知人が実践していることですが、太陽の当たる側の窓やベランダで鉢植えのケナフを育てています。
スダレの代わりになり、日よけにもなります。しかも、ケナフから発散する水分の蒸散作用で気化熱を奪い、結構涼しくなるようです。まさに連続打ち水効果ですね。鉢植えですから、(水分や栄養の独占などで)他の植物の生育を妨げることがありません。また成長したケナフは紙にするそうです。

以上のように、「目からウロコのエコ(ちょっと変わったエコ)」は、工夫次第で環境保全になるだけでなく、楽しくて、家計を楽にもします。

「環境のために頑張るぞ」と力を入れすぎて途中で挫折するよりも、楽しい分長続きするので、結果的に環境負荷の低減につながります。

らそのうち、周囲から「あなたの家庭は環境に優しいですね」と称賛されるようになり、いつのまにか本当に「環境に優しい人」になっているかも知れません。

10.11.12・・・

あなた自身で考えてみてください。


SDGsコラム 第7回「気候変動(地球温暖化)について・その7」

SDGsコラム

 

2022年12月28日

 

こんにちは。ATC環境アドバイザーの立山裕二です。これまでエコプラザカレッジの講師として、また環境ビジネス情報の記事などを執筆させていただいておりました。

今回も、前号に引き続きSDGsの重要な課題でもある「気候変動(地球温暖化)」について書かせていただきます。

ただし、気候変動にこだわらないことをお断りしておきます。

私が環境問題に関心を持ち始めた40年前とは違って、現在は膨大な情報が蓄積されています。しかも、インターネットで直ちに調べることができます。少し調べるだけで、環境問題がかなり深刻になっていることが分かります。
それに、充分なデータがないと行動を起こせないわけではありません。 十数年前の少ないデータでも「何とかしたい衝動」に駆られ、行動を開始した人がいます。私もそのひとりです。そして、同じような志を持つ人が集まり、実践を続けています。

とは言え、世の中は多様性に満ちています。現在の膨大なデータを見ても、行動・実践をためらっている人がいます。データそのものを疑っている人もいます。

もちろん、その人なりの考えがあってのことですから、私がとやかく言う筋合いのものではありません。

ただ、これから挙げる「行動をためらっている」あるいは「行動しない」理由には疑問を抱かずにはおれないのです。
ここで、そのことについて少し考えてみたいと思います。

1.環境問題は科学的に議論されなければならない?

環境問題のことを講演したり執筆していると、たくさんの人からご意見をいただきます。

すでに何らかの活動をしている人は、具体的な事例や効果について教えてくれます。

一方、活動していない人や、活動したくない人、また環境問題を学問的興味のみでとらえてる人からは、ほとんど同じ意見をいただきます。

それは、「環境問題は科学的に議論されなければならない」というものです。なるほど、その通りかも知れません。しかし、「科学的という意味を分かっていれば」の話です。

残念ながら、多くの場合「行動しない理由」や「行動したくない理由」として使っているように思えてなりません。

というわけで、「科学的とは何か」について考えてみましょう。

◆科学的とは?

科学的と聞いて、どんなイメージが浮かぶでしょうか?

街の声を聞いてみました。「何か権威がありそう」「理論的な感じ」「正しそう」「理科系の発想」・・・・。
何となく分かるような気がします。

また科学書には、科学的とは「検証できること、反証できること、再現性があること」のようなことが書いてあります。ここで「反証」とは、「それは間違っているぞ、という証拠をつきつけるか」ということです。

つまり科学的とは「反証できること」、すなわち「実験や観察によって、間違っていると指摘されるリスクを持っていなければならない」ということになります。

ブレヒトという人が「ガリレイの生涯」という著作の中で、「科学の目的は、無限の英知への扉を開くことではなく、無限の誤りに1つの終止符を打つことだ」と言っています。
要するに「科学的というのは、今まで間違ってたことを正していやややプロセス」ということができると思います。

少なくとも、「科学的だからといって正しいとは限らない」のです。

ところで、科学は反証可能性が命ですから、常に反論が出てくることは当然です。
しかし、これは同時に「永遠に結論が出ない(結論を出さない)可能性」を示しています。

地球温暖化など地球環境問題のリスクを考えると、私たちは永遠に結論のでない議論を当てにするわけには行きません。

極めて当然のことですが、科学的に追求すると同時に、リスクの低減のための行動を行うべきではないでしょうか。

これからも様々な仮説が出てくると思いますが、「もしそれが間違っていたらどんなリスクが発生するか」を検討し、より大きなリスクを回避する予防的な行動をとる必要があると思います。

議論に勝った方が正しいとは限らない。これも大きなリスクですね。

環境科学分野に限らず、すべての科学者には、ブレヒトの言葉を噛みしめて、本質の追究に全力を傾けていただきたいと思います。

一方、私たち一般人は、彼らを温かく見守り、精一杯の応援と支援を続けることが必要です。

ところが、どうも「科学者と一般人の間に深くて大きな溝があるような気がしてならなかったのです。

その理由を考えていた時、『「科学的」って何だ!」』(松井孝典/南伸坊共著:ちくまプリマー新書)という本に出会いました。

それによると、科学は「わかるか、わからないかの世界」、世間は「納得するか、納得しないかの世界」だというのです。納得です!

これでハッキリしました。科学者として分かったことを科学的データを駆使して説明しても、一般人は「納得しない限り動かない」のですね。

どちらが正しいかとか、どちらが偉いかという問題ではなく、それぞれの違いを認め合うことが不可欠です。

だとしたら、科学者は、科学的データや仮説を一般人が納得できるように表現しなければなりません。そして、私たち一般人も可能な限り科学的知識を身につけ、分散した要素を統合し、誰もが納得できるような行動指針を創り上げなければなりません。

こうして科学者と一般人の溝を埋めることも、環境問題の解決のために不可欠だと思います。

2.データが古いので参考にならない?

環境問題について話し合う時、必ずデータを使います。このデータは当然適切でなければなりません。

ここで適切というのは、「正しいデータであること」はもちろんですが、「いつ」「どこで」「誰が」「どんな方法で」「どんな条件で」「どんな仮定に基づいて」測定したのかという、「背景」が確かでなければなりません。

背景のハッキリしないデータは、タコの入っていないタコ焼きのようなものです。

そういう意味で、「海面は上昇していない」とか「南極の温度はマイナス50°Cだ」という人がいたとしても、背景(測定条件)が明らかにされていない場合は真に受けない方がいいのです。

また「北極=北極海」など、「間違った仮定に基づいた仮説は、間違いしか産み出さない」ことにも注意してください。

そして、データに関して「このデータは5年前のものだから、古くて使えない」などという人もいます。もちろん間違っているデータは使い物になりませんが、古いからといって使ってはならないとすると、とても奇妙なことが起こります。

当然のことですが、今使っている最新のデータは、5年後、確実に「5年前のデータ」になるのです。その時、古くて使えないのなら「今でも使えない」はずです。そんなことになったら、永遠に使えるデータは出てこないかも知れません。

古かろうが新しかろうが、きちんとした背景の備わったデータを尊重し、活用することが大切なのではないでしょうか。

3.権威者がそう言っているから、誰かがそう言っていたから・・・・?

自分の目でものを見、自分の心で感じる人間がいかに少ないことか。
【アインシユタイン】

よく「今さら江戸時代には戻れない」「縄文時代に戻れるわけがない」という声が聞こえてきます。

それは事実でしょうか?
自分の本音でしょうか?

このように言われたとき、私は「そうかもしれませんね」と受け止めたあとで、「失札ですが江戸時代に住んでいたことがあるのですか?」とか「ひょっとしてあなたの前世は縄文時代だったのですか?」と笑いながら尋ねます。

「ふざけるな!」と叱られそうですが、どうして住んでもいない頃のことが分かるのでしょうか。第一、「江戸時代や縄文時代が不幸だった」と決めつけては、大先輩たちに失礼だと思います。

ただ、自分で調べた上でそう思うのなら、私としては否定のしようがありません。

しかし、「誰かがそう言ったから、そのように思い込んでいるだけ」だったら、少し危険です。

アインシュタインは、このことを嘆いているのではないでしょうか。

私の場合は、いろいろ調べてみて「確かに、人身売買があったとか、階級差別があったとか、陰の部分を見ると住みたいとは思えないが、循環の中で生きていたとか、互助精神に溢れていた、などという光の部分を見ると江戸時代に住むのもまんざらではないな」と思うようになったのです。

もし、江戸時代の人に現代社会の「便利、快適という光の部分」と「環境破壊、交通事故、いじめ、世代間の断絶・・・・などの陰の部分」を別々に見せたとき、どのように反応するか見てみたい気がします。

昔に戻るか否か、という二者択一ではなく、「持続可能な社会を築くために、どの部分を昔に戻し、どこを戻さないか。今のいいところと悪いところはどこか」などについて大いに語り合う必要があるのではないでしょうか。

できれば、地球環境の現実を本で読んだり聞いたりした時、自分でも調べてみてくださいね。

◆研究者の意図が正しく伝わっていないかも知れない

では、1つ応用問題を出します。

2007年5月21日付の「某新聞」に次のような記事が掲載されました。

グリーンランドの氷河解けても気候の激変ない東大など解析冒頭の部分を引用します。

グリーンランド氷河が溶けて大量の真水が北大西洋に流れ込んでも北半球の急激な気候の変化は起きそうもない。

東京大学と海洋研究開発機構の研究チームがスーパーコンピューターを使った解析で明らかにした。
地球温暖化によって気候激変が起きるとする有力説を覆す研究成果だ。

これを読んでどう思いましたか?

「気候の激変が起きそうもないので良かった」思いましたか?

私は、この記事を読んで大ショックでした。私の「気候激変予測」が外れたからではなく、あまりに情けない研究者の見解と、それを鵜呑みにしている新聞社の姿勢にです。

もう一度記事の最初を見てください。

グリーンランドの氷河が解けて大量の真水が北太平洋に流れ込んでも北半球の急激な気候の変化は起きそうもない。

このこと自体が「気候の激変」ではありませんか。

この記事は、「気候の激変が起こった後、気候の激変が起こらない」という恐るべき解釈になっています。

グリーンランドの氷河が解け、大量の真水が流れ込むと言う状況は、すでに北極圏の気温が相当上昇していて、アラスカやシベリアの氷河も大量に溶けているはずです。
北極海に浮かぶ氷山も消滅しているかも知れません。

この状況を「気候の激変と認識しない」研究者の意識はどうなっているのでしょうか?

そして、それを真に受けた新聞社。まさに「ゆでガエル現象」ですね。

ここで「ゆでガエル現象」とは、水の入った鍋にカエルを入れて徐々に温めていっても、カエルは気持ちいいので飛び出そうとせず、熱いと気づいたときには手遅れで、結局はゆで上がってしまうという話です。

あの「デイ・アフター・トゥモロー」という映画で描かれた「氷河期襲来」が激変であり、それ以外は緩慢な変化と見なしているとしたら、それは明らかに認識違いです。

地球の平均気温が2度上昇すると、気候や生態系に激変が起こるというのが、多くの識者の見解なのです。

また、新聞記事で「研究成果」という言葉を使っていますが、いったい何にとって、誰にとっての「成果」なのでしょうか。

ひょっとしたら、この研究グループはこの発表の際に「だからといって温暖化が進行して良いわけではない」というようなことを言っているかも知れません。しかし、それが記事になるかどうかは、記者ひいては新聞社の判断です。

研究者は、自分が発表したことが正確に伝わっているかどうか確かめるべきです。でないと、自分自身の信用がなくなってしまいます。「これだけは外さないで欲しい。
それができなければ記事にしなように」という毅然とした態度で記者会見に望んでいただきたいと思います。

私はできるだけ批判は避けたいのですが、あまに納得のいかない記事でしたので、あえて取り上げさせていただきました。

4.実際に見ていない人は環境問題を語る資格はない?

人間は他人の経験を利用するという特殊な能力を持った動物である。
【コリングウッド】

何事も「体験しなければ分からない」「実際に見なければ分からない」というのは、確かにその通りだと思います。

しかし、「体験しなければ、実際に見なければ環境問題を語る資格がない」としたら・・・・。
途上国の飢餓、貧困やスラム化、熱帯林の破壊、南極棚氷の崩壊、ヒマラヤ氷河の縮小、アラル海の消滅、黄河の断流・・・・・・など、ほとんどの人が体験はおろか、実際に見ることもできません。

では、環境問題は一部の人にしか語る資格がないのでしょうか?

そんなことで特権階級をつくるなんてナンセンスですね。

でも、心配することはありません。人間には、他人の経験を活用する能力と、他人の気持ちに共感できる心があります。私たちが人間である限り、大丈夫です。

環境問題は誰にも語る権利があります。絶対に特権者を作ってはいけません。

それぞれは、ちっぽけな体験でも構わないのです。小さな体験がたくさん集まれば、人類総体としての体験の蓄積ができます。人間が人間であることを止めない限り、希望が消えることは決してないのです。

さあ、安心して小さな体験を積み重ね、大いに語りましょう!


SDGsコラム 第6回「気候変動(地球温暖化)について・その6」

SDGsコラム

 

2022年10月30日

 

こんにちは。ATC環境アドバイザーの立山裕二です。これまでエコプラザカレッジの講師として、また環境ビジネス情報の記事などを執筆させていただいておりました。

今回も、前号に引き続きSDGsの重要な課題でもある「気候変動(地球温暖化)」について書かせていただきます。

■北極の氷について

「北極の氷が解けても海面上昇しない」と聞いたことがありますが、ホントはどうなのですか?

この種の質問も多くいただきます。

たとえば

友だちや知り合いの人と温暖化について話をしていると、「北極の氷が溶けても海面上昇しないそうだよ」とよく言われるんです。
何でも、専門家の先生がテレビで断言していたみたいです。アルキメデスの原理で説明していたそうです。
つまり、水に浮いている氷が溶けると、溶けた分だけ水の体積が増える。しかし、その分だけ水没していた部分の体積が減るので、結果としてプラスマイナスゼロになる。だから、水位は変わらない。
何となく分かるような気がするけど・・・・どうもピンとこないし、何か違和感を感じるし・・・・。
自分で考えてもラチがあかないので、質問してみました。

という内容です。

本やテレビ番組で紹介されたせいか、とても多くの質問をいただきます。最近では、「北極の氷が溶けると海面上昇するという“あなたの(私のことです)”説明は間違っている」と指摘されることもあります。

本当のところはどうなのでしょうか?

 

ある大学の先生は、インターネットのサイトで、「温暖化で北極海の氷が溶けることは確実であるが、海に浮かんでいる氷が溶けたからといって海面が上昇することはない」と述べています。

そして「温暖化によって北極の氷が溶けて海面が上昇する」というのは「絶対的間違い」として、「いまさら、ウソだというまでもない単なる無知に過ぎない」とまで言い切っておられます。

 

環境問題の権威者がそういっているのだから間違いない。おそらく、大多数がそう思うでしょう。ところが、ここに大きな落とし穴が存在するのです。

お二人とも「北極海=北極」と信じているようですが、ここに根本的な誤解があります。

実は、北極は一般に「北極圏」を意味しています。そして北極圏とは、北緯66.5度(66.6度としている文献もあります)以北を指します。

66.5度以北というと、北極海、北アメリカ大陸最北部、クイーンエリザベス諸島など、グリーンランドの大部分、スカンジナビア半島北部、ユーラシア大陸にあるシベリア北部を含みます。

また図のように、7月の気温が10度の等温線に囲まれた部分(赤線の内側)を北極と定義することもあります。

【北極(ウィキペディアより)】

いずれにしても、北極には広い面積の陸地が含まれるのです。言うまでもなく、陸地にはグリーンランドやアラスカで明らかなように大規模な「陸氷」が存在します。陸氷が溶けると、当然のことながら海面上昇が起こります。

ある人は、アルキメデスの原理を用いて「海面上昇は起こらない」と主張していますが、それはあくまでも「北極海に浮かぶ氷が溶けたら」ということです。ただし実際には、北極海の氷が溶けて海面が露出すると、太陽熱の吸収によって水温が上がり、水の膨張に伴う海面上昇が起こります。

より正確に表現すると、北極の氷が溶けても(熱膨張を考えなければ)海面上昇は起こらないが、北極(圏・域)の陸氷が溶けると海面が上昇するということになります。

というわけで、表題の応えは「北極海の氷が溶けても(熱膨張を考えなければ)海面上昇は起こらないが、北極(圏)の氷が溶けると海面が上昇する」ということになります。

目くじら立てて批判しても仕方がないことかも知れませんが、科学者の影響たるや非常に大きいものがあります。自分の発言が、「読者にどのように伝わり、どんな行動を引き起こすか」という自覚を持っていただきたいと思います。

少なくとも、「温暖化なんてたいしたことない」という風評を広めたり、環境改善活動に消極的な人にとって「活動しないための格好の理屈付け」につながらないような配慮が欲しいものです。

私たち一般人も、専門家(科学者・権威者)の意見は尊重するものの、頭から鵜呑みにしない態度も必要ではないでしょうか。専門家は、専門分野以外は素人です。様々な要素が関連しあっている地球環境問題を論じる場合、むしろ間違いを含んでいることの方が多いのかも知れません。

私の場合は、「まずは(インターネットや文献などで)自分で調べてみる」という習慣をつけました。この際、できるだけ多くの人の意見や学説を集めるようにしています。

■温暖化で5m以上海面が上昇するって本当?

本やテレビ番組は極端な説を扱っていることが多いし、説得力もあるから、私自身、なんか振り回されている感じがします。

いわゆる「最悪のシナリオ」も極端と言えば極端ですよね。

確かに海面上昇については、たくさんの意見や学説があって混乱してしまうかも知れません。ここで少し整理してみましょう。

そこで多くの意見を集めるという意味で、海面上昇について最近よく耳にすることを聞いてみました。

IPCCは、「21世紀の末に1990年と比べて海面が、最も温室効果ガスの排出量が少ないシナリオで18~38cm、最も排出量が多いシナリオでは26~59cm上昇すると予測しています(地球温暖化第四次レポート)。

その一方で、「温暖化で5m以上海面が上昇する」という警告も出されています。

例えば、IPCCのロバート・ワトソン元議長は、「このまま二酸化炭素などの排出増加が続けば、先々グリーンランドや南極西部の氷床が溶け、海面が6mも高くなるという取り返しのつかない影響のきっかけをつくることになる」と警告しています。

一見、矛盾した意見のようですが、どちらも同じことを言っているのです。

IPCCは「21世紀末時点の上昇」を予測していて、「その時点で海面上昇が止まる」とは言っていません。

水位の上昇は、極地(南極・北極・ヒマラヤ)にある陸氷が海に流れ込んだり、水温上昇による熱膨張によって起こります。

ここで重要なのは、「水の熱しにくく冷えにくい性質(大きい熱容量)」と、「膨大な海水量」のため、例え温室効果ガスの排出が止まっても長期に渡って水位が上昇し続けるということです。

ここからは、少し以前のものですがIPCCの第四次レポートに基づいて話を進めます(分かりやすいので)。大人向けのレポートなので少し難しい表現が出てきますが、じっくり読み、そして考えてみてください。

さてIPCCは、このレポートで、「過去および将来の人為起源の二酸化炭素の排出は、このガスの大気からの除去に必要な時間スケールを考慮すると、今後千年以上の昇温と海面水位上昇に寄与するであろう」と説明しています

そして、海面水位に関して次のように解説しています。

グリーンランドの氷床の縮小が続き、2100年以降の海面水位上昇の要因となると予測される。現在のモデルでは、(工業化以前と比較して)世界の平均気温が1.9~4.6℃上昇すると、気温の上昇による氷の質量の減少が、降水による増加を上回り、表面の質量収支が負に転じると予測されると示唆される。質量収支が数千年間負の値であり続ければ、グリーンランド氷床は完全に消滅し、約7mの海面水位上昇に寄与するだろう。グリーンランドにおける将来の気温は、125000年前の最後の間氷期の推定気温に匹敵するが、古気候の記録が示すとおり、この時は極域の雪氷面積の減少と4~6mの海面水位上昇が起きた。

ここで「質量収支が負に転じる」というのは、「増加した氷の量よりも減少した氷の量の方が多くなる」ということです。言うまでもないことですが、グリーンランド氷床が完全に消滅するような状況では、北半球に限ってもアラスカやシベリアなどの陸氷が同様に溶ける確率は極めて高いでしょう。

これらのことから、IPCCの予測を「海面水位の上昇は、100年間に最大59㎝の割合で千年以上続く」と解釈すべきだと思います。繰り返しになりますが、21世紀末に水位の海面上昇が止まるわけではないのです。

◆静的変化と動的変化

IPCCの予測は、あくまでも静的変化の場合です。静的変化とは、屋根に積もった雪が自然に溶けて消えたり、雪だるまが少しずつ溶けて自然に消滅するような変化のことです。

一方、屋根に積もった雪が突然バサッと落ちてきたり、雪だるまの頭が突然落ちるようなダイナミックな現象を動的な変化といいます。屋根に積もった雪をよく観察してみると、動的な変化がよく起こっています。

ここで仮に、庭に池がある一軒家をイメージしてみましょう。

さて、春になって屋根に積もった雪が溶けたら、池の水位がどれだけ上がるでしょうか?

静的な変化については、屋根に積もった雪の量が分かれば計算で求められます。雪の体積を測って水量に換算し、池の面積で割れば雪が溶けたことによる水位の上昇が分かりますね。これに水温上昇に伴う熱膨張分を加えると、春時点での水位上昇が予測できます。

しかし動的な変化に関しては、「いつ、どの部分で、どのくらいの規模で起こるか」を予知することは現時点の科学ではまず不可能です。ましてや地球規模の動的変化など正確に分かるわけがありません

南極大陸で起こる可能性があるとされる最大の動的変化は、「西南極の氷床が南氷洋に滑り落ち、一気に海面水位が5m以上も上昇する」というものです。

科学者の多くは「今すぐには起こらないだろう。起こったとしても数百年先だろう」と言っていますが、これとて「現時点での見解」に過ぎません。そもそも「数百年先のことなんて考えてられない」という発想が根底にあったとしたら、ちょっと幼稚で情けないですね。

なお動的変化については、IPCCの第四次レポートに次のような記述があります。

現在のモデルには含まれていないものの、最近の観測結果が示唆する氷河に関係した力学的な過程によって、昇温によって氷床の脆弱性(ぜいじゃくせい=もろくて弱い:著者加筆)は増加し、将来の海面水位上昇がもたらされる可能性がある。しかし、これらの過程についての理解は限られており、その規模についての一致した見解は得られていない(第5次、第6次と時間の経過につれて見解が一致してきてはいますが)。

要するに最先端の優秀な科学者たちでさえも「分かっていない」と言うことです。「分からないから分かるまで何もしない」のか、「分からないから今から最悪のことが起こらないように手を打つ」のか、私は後者ですが、みんながみんなそう考えているわけではないようです。

このことはとても重要なことですので、次号で改めて考えたいと思います。


SDGsコラム 第5回「気候変動(地球温暖化)について・その5」

SDGsコラム

 

2022年9月15日

 

こんにちは。ATC環境アドバイザーの立山裕二です。これまでエコプラザカレッジの講師として、また環境ビジネス情報の記事などを執筆させていただいておりました。

今回は、前号に引き続きSDGsの重要な課題でもある「気候変動(地球温暖化)」について書かせていただきます。

■石油が枯渇すると温暖化が止まる?

よく次のような質問をいただきます。

「地球温暖化の原因である二酸化炭素は、石油を燃やすことで発生する。だから石油が枯渇したら、二酸化炭素が出なくなり温暖化が止まる」。 このようなことを聞いたことがありますが、ホントですか?

この場合、おそらく石炭も含めて便宜的に「石油」と表現しているのだと思います。確かに石油が枯渇すると、(石油の)燃焼による二酸化炭 素の発生はなくなるでしょう。

しかし石油を燃やすと、二酸化炭素だけでなくエアロゾル(硫酸ミスト=霧状の硫酸など)も同時に発生します。

これは、太陽光を反射するので地球を冷やす作用(ちょっと難しい表現ですが「負の放射強制力」と言います)があります。

石油がなくなると二酸化炭素の発生がなくなりますが、エアロゾルの発生もなくなるのです。 しかも二酸化炭素の大気中の寿命は数百年、エアロゾルの寿命は1年程度です。

つまり、石油がなくなるとあっと言う間に冷やす作用がなくなり、二酸化炭素など温室効果ガスの作用が前面に出てきます。森林伐採に伴う二酸化炭素の吸収能力が小さくなっていることと、大気中における寿命の違いを考慮すると、「石油が枯渇するとしばらくは温暖化がかえって進行する」ことがあり得るのではないでしょうか。

また石油の枯渇に至る前に、メタンハイドレートを使い始める可能性があり、これに関するリスクが出てきます。

この辺りの因果関係は複雑なので、「だから温暖化が進む」とは言い切れませんが、その可能性とリスクは考慮しておいた方がいいのではないかと思います。やはり温室効果ガスは直ちに、しかも大幅に削減しなければならないのです。

■「南極の氷が溶けている」という話がありますが、 実際に溶けているのでしょうか? また溶ける(解ける)と何が起こるのでしょうか?

地球温暖化が起こると海の水位が上がるとか、上がらないとか、いや下がるとか、また「一気に何メートルも水位が上がるとか」・・・・いろんな情報が飛び交っていますね。正直、頭が混乱して何が何だか分からなくなった、と言うのが実感という人も増えています。

南極の気温はマイナス50℃くらいだから、少しくらい温度が上がっても氷は溶けない?
南極大陸の降雪が増え、氷がむしろ増えるので海面は低下する?

そのような方の気持ちは分かります。
おそらく、ベストセラーになった環境本に影響されているのではないかと思います。

次のような表現です。

南極大陸は平均してマイナス50度という非常に低い温度なので、 平均気温が1度ぐらい上がっても零度以下の場所が南極大陸全体に広がっている。南極大陸の周りの気温が上がり、海水温が上がれば水蒸気の量が増える。もし風が海から大陸の方に吹いていたら、この増えた水蒸気は雪や氷となって南極大陸につもるだろう。

「南極の気温が上昇している」。「いや、観測によるとむしろ低下している」。実際、こんな議論も行われています。

さて南極の気温と聞いて、どこの気温を想像しますか?

海岸付近ですか?・・・・そうすると海抜0m近辺ですね。では南極点ですか?

まずは南極の断面(図表)をご覧ください。

【図表1:南極の断面図(環境省のホームページより)】

南極は平均2450mの氷で覆われていて、南極点は標高2800mの地点です。「南極の気温はマイナス50℃」というのは、富士山の平均気温(マイナス6.4℃)を取り上げて「日本の気温はマイナス6.4℃」と言っているようなものなのです。 実際、図表のように南極の気温は場所によって大幅に異なります

【図表2:南極の気温(環境省のホームページより)】

【図表3:南極の基地(環境省のホームページを一部修正)】

 

・みずほ基地(標高2230m)と昭和基地(標高29.18m)との間でさえ270㎞も離れている(東京と日本アルプス間に相当) 。パーマー基地や昭和基地の夏季の気温は0℃を超えることもある。

例えば、みずほ基地と昭和基地とでは大きく気温が異なります。2つの基地はかなり近くにあるように見えますが、実は270㎞くらい離れています
東京と富士山でも100㎞くらい、270㎞だと北アルプスを越えてしまうような距離
です。しかも、昭和基地とみずほ基地の標高は、それぞれ29.18m、2230mであり2200mも違うのです。

南極を語る場合は、大陸の面積が日本36倍もあることと、場所によっては富士山よりも厚い氷に覆われている(4000m)ことを意識しておく必要があります

話を元に戻しましょう。 実は、マイナス50度というのは南極大陸全体の平均気温ではなく、 南極点の平均気温なのです。 図表3から明らかなように、昭和基地やパーマー基地では夏の気温が0℃前後になっています。しかもこの値は平均気温ですから、0℃を上回る日もかなりあると考えられます。とすると、わずかな気温上昇が雪を雨に変えてしまう可能性があり、氷床(分厚い氷の固まり)の不安定さが増すことが考えられます

もともと南極大陸の上に乗っている氷の底は、氷床それ自体の重さによって溶けています。つまり岩盤に固定されているのではなく、滑っているのです。それが氷河となって大陸から海に向かって行くわけですが、 最近その氷河の流れが速くなっているという報告があります。その大きな理由が、大陸周辺部での海水温の上昇といわれています。 現在、南極で最も氷床の状態が不安定なのは南極半島付近(西南極)といわれていますが、その先端部にあるパーマー基地の気温がかなり高いことが気になるところです。

コラム:南極の風向は?・・・・カタバ風について

このコラムは質問に対する応えではなく、本書著者である立山が持っている疑問です。読者の方で詳しい方がおられましたら、ぜひとも教えていただけないでしょうか。

次のような見解があります。 南極大陸の周りの気温が上がり、海水温が上がれば水蒸気の量が増える。もし風が海から大陸の方に吹いていたら、この増えた水蒸気は雪や氷となって南極大陸につもるだろう。 ここで素朴な疑問です。

風が海から大陸に吹くことはあるのだろうか、ということです。 海陸周辺の海水温が上がればそこで上昇気流が生じ、海側が低気圧になるはずです。一方、大陸側は氷で冷えているので高気圧となります。すると、大陸から海に向かっての風が吹くはずです。つまり「陸風」ですね。 そして忘れてはならないのが「カタバ風」という南極特有の強風の存在です。

南極大陸では、雪氷面の温度が極めて低いのでその付近の空気が冷やされて重くなります。南極大陸を覆う氷床は内陸部が厚く、周辺が薄いので、標高の高い内陸から海岸に向かって冷たくて重たい空気が滑り降りてきます。この下降してくる空気の流れをカタバ風と言います。そのために、南極大陸の風向きはほとんど変わらないのです。

これについては、佐藤薫氏が「南極昭和基地の気象」という論文で次のように説明しています(2004日本気象学会)。

地上風の風向がほとんど変わらないというのは、昭和基地に限らず、南極内陸部、沿岸部で共通する特徴。内陸部観測点である南極点での方向一定性は79%、ボストーク基地では81%、みずほ基地では96%、沿岸部のモーソン基地では93 %、ハレー基地では59%である(King and Turner,1997)。これは、南極のカタバ風が大陸規模の現象だからである。

このことを考えると、確かに海水温が上がると水蒸気が増え降雪が増えるでしょうが、それは大陸というよりも周辺の海上部にではないでしょうか。 そして雪が比重の大きい海水(塩水)の上に淡水層を作り、それが氷結する可能性があります(淡水は塩水よりも凍りやすい)。だとしたら、南氷洋で氷の面積が増えたように見えるのは当然です
しかし、周辺の水温が上昇していくと、氷結しなくなる可能性があるように思います。

以上のことから少なくとも私には、南極周辺の海水温が上がって 大陸内部の雪(氷)を増やすとは思えないのです。

ただし、南極半島西部ではここ数十年、降雪量が増えているそうです。パーマー基地の周辺では降雪量が増えているという報告があります。パーマー基地は図表3からも分かるように西南極の端の方にあります。カタバ風の直接影響を受けにくく、温度上昇によって低圧域(低気圧)となりやすい場所にあります。 従って、このことを理由に「温暖化すると南極の氷が増えることを結論づけることはできない」と思います。

◆IPCCの見解は? このことについて、IPCCは「地球温暖化第四次レポート」の中で次のように予測しています。

現在の全球モデルを用いた研究によれば、南極の氷床は十分に低温で、広範囲にわたる表面の融解は起こらず、むしろ降雪が増加するためその質量は増加すると予測される。しかしながら、力学的な氷の流出が氷の質量収支において支配的であるならば、氷床質量が純減する可能性がある。

この見解が正しければ、私の心配は杞憂と言えます。ただこれだけでは「氷床のどの部分で降雪が増えるのか」が不明です。もし、氷床の端の方、つまり棚氷で降雪が増えるとすると、氷床のたなごおりが崩れる可能性があります。 上文の後半にある「しかしながら・・・・」というのは、その可能性も示唆していると思うのですが、果たしてどうなのでしょうか。

◆ただの邪推だといいのですが・・・・ ここからはまったくの推測(邪推)です。素人判断は危険だとは思いますが、むしろ誤りを指摘していただくために、あえて私見を述べさせていただきます

再びカタバ風に戻ります。吹き降りてくるカタバ風を補充する大気の流れ(補償流)が起こりますが、この空気に含まれている水蒸気は海上に降る雪に使われ、かなり減少していると思われます。その結果、ただでさえ湿度の低い大陸中央部の乾燥化が進みます。この乾燥した空気がカタバ風となって海上にまで吹き降りてくると、断熱圧縮によって気温が上がることはないのでしょうか。

そうなれば、ますます南極周辺部の気温や海水温が上昇し、悪循環(ポジティブ・フィードバックといいます)に入っていくことが懸念されます。 かなり長く、理屈っぽいコラムになってしまいました。もし専門家の方がおられましたら、私の疑問を解決していただけませんか。 心からお持ちしています。

次回も引き続き、「気候変動(地球温暖化)」について、北極話を中心に見て行くことにします。


特別コラム 第29回「グリーンクリエイターとして生きる(活きる)」

コラム

 

2022年8月31日

 

こんにちは。ATC環境アドバイザーの立山裕二です。これまでエコプラザカレッジで環境経営やSDGsなどについてセミナー講師を務めさせていただいておりました。

今回は、「グリーンクリエイターとして生きる(活きる)とはどういうことか」について私の自説をご紹介したいと思います。

ただし私の自説(我説?)ですので、皆さんなりに考えてみてくださいね。

■グリーンクリエイターとして生きる(活きる)って?

少し大げさなタイトルですが、グリーンクリエイターとして、何を心がければいいのでしょうか。この問いには、普遍的な正解などありません。ただ、「グリーンクリエイターは“常”に地球にやさしくなければならない」と力んでいては長続きしないでしょう。

ここでは、私のこれまでの活動で気づいたことの中から、参考にして頂けそうなものをいくつかご紹介したいと思います。

1.楽しむことが第一!

本質的に、「人は苦しいことは嫌いで、楽しいことが好き」です。やはり「楽しいこと」がキーワードだと思います。「グリーンコンシューマーやグリーンクリエイターになって地球を救おう!」と訴えるよりも、笑顔いっぱいで楽しんでいる様子を見てもらう方が遙かに効果的です。実例をご紹介しましょう。

もう20年以上も前の話になりますが、仲間30人くらいで河川敷のゴミ拾いをしました。「燃えるゴミ班」と「燃えないゴミ班」の2つのグループに分かれて、一生懸命ゴミを拾いました。

結果は、トラックに積みきれないくらいの量が集まり、一応の効果は確かにありました。しかし、みんなの顔には満足感にはほど遠い、不満や怒りの表情が浮かんでいたのです。気になった私たち主催者は、全員に今日の感想を聞いてみることにしました。

すると「こんなに多くのゴミを捨てる人の気がしれない。本当に腹が立った」とか「私たちがゴミ拾いをしているのに、周りの人は誰も手伝ってくれない。ひどいのは犬の散歩をしている人や自転車に乗っている人から『邪魔やないか、いくら良いことをしているつもりでも、通行人に迷惑をかけたらあかんで』と怒鳴られました。私は悔しくて泣きそうになりました」という訴えが多数返ってきたのです。

なぜ世の中にはそんな(心ない)人がいるのかという話題に終始していたとき、ある人がこんな発言をしました。

「みんな周りの人が悪いようにいうけど、ボクたちに問題があったのと違うやろか。みんなゴミを拾ってたとき、真剣なんは分かるけど、ものすごく怖い顔してたで。ボクやったらそんな仲間に入りたないわ」。

この言葉にほとんどの人が絶句してしまいました。

「確かにそうかもしれない。自分もそんなグループに入るのイヤやし、人にもすすめたくないわ」というのが参加者の偽らざる気持ちでした。

では、どうすればいいのでしょうか。みんなで話し合いました。とっくに予定の時間は過ぎていたのに誰も帰ろうとしません。

その結果、「やはり楽しむことが一番。ゴミ拾いそのものが目的になってしまうから楽しくないんだ」ということになりました。そこで、アイデアを出し合ったところ、「野鳥観察をしながらゴミ拾いをする」、「野草や薬草の実地研究会をしながらゴミ拾いをする」、という楽しそうな企画が生まれたのです。

そこで、早速この2つの企画を実行したところ画期的ともいえる成果が生まれたのです。まず何よりも楽しいこと。野鳥観察には「日本野鳥の会」のメンバーの方にきていただき、野鳥の名前、種類の見分け方、生態などを双眼鏡片手(両手?)に教えていただきました。

野草研究では、メンバーの中に詳しい人がたくさんおられたので、それぞれ情報を出し合いました。「薬草の見分け方」「こうすればこの野草は美味しいお茶になる」「料理の仕方」などがポンポン飛び出し、「よくそんなところまで知ってるな」と感心しきりでした。

さらに見たこともないような野草が見つかったとき、草花辞典を取り出し、みんなでああでもないこうでもないと議論するなど、和気あいあいの雰囲気に包まれたのです。

ところで、肝心のゴミ拾いの方はどうなったのでしょうか。

心配ご無用。前回以上のゴミが集まっていました。集めたという意識はありません。ただ気がついてみたら集まっていたのです。

しかし、収穫はこんなものではありませんでした。

前回あれほど誰も手伝ってくれなかったはずなのに、今回は、周りの人が進んで手を貸してくれました。釣りをしている人も、「ここにもたくさん空き缶があったよ」とわざわざ持ってきてくれるのです。そして、犬の散歩や自転車に乗っている人も「何やってるの、なんだか楽しそうやね」と興味津々でのぞき込んできました。そして、帰り際に「ありがとう」といわれるのです。

ちなみに、前回と今回とはまったく同じ場所でゴミ拾いをしたのです。日本と外国での話ではありません。

私たちは、周りの人が手伝ってくれない、あるいは非難するのは、私たちの方に問題があったということを肌で学ぶことができました。楽しく、笑顔で活動していると、強引に誘わなくても自然に輪が広がっていくものなのですね。

2.要求から応援へ

私たち人間は、「対立関係」を作りだすのが得意なようです。「電力会社」対「地域住民」、「企業」対「消費者」、「国土交通省(旧建設省)」対「ダム反対派」などです。このような対立関係を作り出すことこそ、問題解決を遅らせる元凶なのです(なのだと思います)。

原子力について言えば、電力会社のすべての社員が「原子力発電所建設」に賛成しているわけではありません。農林水産省の職員全員が「減反」に賛成しているわけではありません。社員や職員に尋ねてみると、むしろ反対している人が多いくらいです。以前、旧建設省で講演したことがありますが、「もはや開発ありきの時代ではない」ときっぱりと言い切る人が多いことに驚いたくらいです。

これを国家規模にまで拡大しても、同じことが言えます。以前アメリカが温室効果ガス削減のための「京都議定書」から離脱したからと言って、国民全部が政府を支持しているわけではありません。むしろ、人数としては支持していない方が多いのです。

企業と消費者の対立を考えてみましょう。

グリーンクリエイターは、買い手の立場としては「環境に配慮して商品を選択する生活者」です。しかし、環境に配慮していない商品を見つけたとき、「選択しない=買わない」では、相変わらずその商品は販売され続けることになります。「環境によくないものは、そのうち淘汰される」とは言うものの、グリーンコンシューマーが数少ない現状では、かなり長い間、その商品が店頭に並ぶ(売られ続ける)ことになるでしょう。

これを防ぐ方法として、以前から「抗議」「要求」という方法がとられてきました。「環境に悪い商品を作るな!……さもないと不買運動を起こすぞ!」というものです。残念ながら、このような形で抗議・要求されて、「はい、分かりました」と製造を打ち切る経営者はめったにいません。人間は攻められたとき、防御の態勢をとるものです。

私はこのようなとき、要求ではなく「応援」という方法をとることにしています。「環境によくないものは買わないけど、良いものだったら応援するわよ」ということです。

これは決して理想論ではありません。おもしろい実例を示しましょう。

ある女性からこんな相談を受けました。

「○×中華料理店に行ったとき料理が残ってしまったので、お店の人に『持ち帰ってもいいですか』と尋ねたんです。そしたら、『それはできません』という返事。食中毒の恐れがあるからですって。その時はすごすご引き上げたけど、後で何かもったいなくって……どうしたらいいと思います?」

そのとき私は、「応援の手紙」という方法を紹介しました

「経営者に応援の手紙を書いてみてはどうですか。まず、あなたの素直な気持ちを書きます。『料理がとてもおいしかったけど、持ち帰れなくて残念だった。でも、お店としたら食中毒が発生したら大変だし、気持ちも分かります」というように。そして、『もし持ち帰りができるようになれば、たくさんの友達に安心して紹介できると思います』とあなたがして欲しいことを書くのです」

彼女はすぐに実行しました。1週間後、そのお店は「持ち帰りが可能」になりました

もしここで、「けしからん。もったいないじゃないか。生ゴミが増えるし、第一その処理はどうしてるんだ。持ち帰りをOKしてくれないなら、もう絶対に食べにこないぞ!」という「抗議の手紙」だったらどうでしょう。おそらく、実現されることはなかったと思います。事実、それまで実現していなかったのですから。人間の心理は、「抗議されると“できない理由”を探し、応援されると“できる方法”を見つけ出そうとする」もののようです。

ですから、反原発のために「電力会社の総体」に抗議するよりも、「電力会社の中で自然エネルギーの普及を促進しようとしている社員」を応援する方が、脱ダムを「国土交通省の総体」に要求するよりも、「同省の中で、自然河川の復元や森林再生を推進しようとしている人たち」を後押しする方が効果的だと思います。

アメリカに対しても、「議定書離脱はけしからん。不買運動して国を潰すぞ!」と抗議するのではなく、「地球環境のことを真剣に考えて行動している企業やNGO」を応援してはいかがでしょうか。アメリカが京都議定書という約束事を反古にしたのは、わがまま以外の何ものでもないと思います。しかし、「途上国が参加しない限り、地球温暖化は防止できない」というのも、また事実なのです。

私はここで、「いかなる場合でも抗議・要求するな」と言っているわけではありません。その国や企業に1人でも「環境にやさしい人」がいる限り、その人を応援すべきではないかと言うことなのです。大勢の中で「1人だけ」というのは、とても勇気がいることです。この勇気ある人こそ、「1人から社会を変える可能性のあるグリーンクリエイター」です。抗議・要求・不買運動は、「地球にやさしい人」が1人もいないことを確認してからでいいのではないでしょうか。

先の中華料理店の例では、結果として、お店の廃棄物処理費用を削減することになりました。もし私たちが「賞味期限を何日か延長することを認めるとしたら」、「へこんだ缶でも許すとしたら」、「ピザの配達が規定の時間より遅れることを許すとすれば」、「野菜の虫食いを許すとしたら」、「本の汚れを許すとしたら」、「受け入れ検査で発見した僅かなキズを許すとしたら」……全国で膨大な廃棄ロスを防ぐことができるでしょう。これらは、環境負荷の削減だけでなく、お店(企業)の利益にも貢献していることになります

私たちは、「許す」という形で「応援」することもできるのです。

3.二者択一の議論から抜けだそう

地球環境問題への関心が高まり、至る所で環境グループ(NPO、NGO)が生まれ、それぞれの活動を行っています。

ただ最近、少し気になることがあるのです。それは、環境問題についての議論の多くが、AかBかという二者択一を求めているように感じることです。

たとえば次の議論について、講演会後の懇親会などでよく質問されます。

「お皿についたマヨネーズをティッシュでふき取るのと水で洗うのとでは、どちらが地球にやさしいのですか?

「マヨネーズは大量の水で薄めないと魚が生きていけないので水で洗うのは良くない。だからティッシュで拭き取る方が地球にやさしい」、「ティッシュを使えば森林破壊につながるし、それを燃やすと二酸化炭素が出て地球が温暖化してしまう。また木がなくなるということは水を蓄えることができなくなり、淡水資源もダメになる。だから水で洗う方が地球にやさしい」など、立場の違いによる意見の対立が見られます。

確かに、どちらの意見も事実ですし、正解の1つと言えるでしょう。

でも、「お皿にマヨネーズがつかなければ水もティッシュもいらない」のです。この場合、「お皿についたマヨネーズをどうするか」という視点で議論する限り、それぞれ自分の都合の良いデータを集めることに精いっぱいで、なかなか事実は見えてこないものです。

少し視点を変えると、「マヨネーズを必要なだけキャベツにつけて食べればお皿は汚れない」、など、第三のアイデアが出るものです。これだけ言っても、「でも、注意していてもお皿にこぼれたりする場合もあるでしょう」と食い下がる方も(ほんのわずかですが)おられます。

そんなときは、「お皿をなめればいいのです。イヤだったらフランス料理のスープのように、パンなどですくって食べたらいかがですか」と笑って答えることにしています。

もう少し考えを進めると、「そもそもマヨネーズをつける必要があるのか、マヨネーズがなくてもおいしく食べられるのでは……」というような、いわゆる「脱マヨネーズ」の発想も生まれくるでしょう。

そして、「マヨネーズが必要になったのは、野菜がおいしくなくなったから。野菜がおいしくなくなったのは、農薬や化学肥料を使ったために土が死んでしまったから」というように、次第に根本原因に向かって気づきが深まっていくのです。

このように、環境問題(それ以外でも)の特徴は「議論に勝った方が正しいとは限らない」、「AかBという議論を越えたところでC、D、E……という本質的な答えが得られることが多い」ということを肝に銘じておく必要があると思います。

環境保全派と開発推進派との間、環境グループ同士、またグループ内で意見の対立が生じたとき、「私たちはAかBかの議論に陥ってしまっているかもしれない。視点を変えて考えてみようよ」と提案してみてはいかがでしょうか。ひょっとすると、目から鱗が落ちるような、新鮮でしかも両方が満足するアイデアが生まれてくるかもしれません

4.みんな違ってみんないい

私は、これまで環境問題から学んだことは数多くありますが、なかでも最も感動したのは「この世界は多様性で成り立っている」ということです。まさに金子みすゞさんの「みんな違って、みんないい」の世界です。

◆違うから面白い

この宇宙には無数の星があり、それぞれの星には無数の生命(有機物)や無機物が存在しています。この地球上にも数千万種の生物や数限りない無生物が溢れています。また同一種の中であったとしても「まったく同じもの」はひとつとして存在しません。その意味で、この世の中は「違うもの」の集合体といえます。つまり「違うこと」が当たり前なのです。このことはもちろん「人間」にも当てはまります。姿形が一人ひとり違うことは当然ですし、育ってきた環境によって知識、経験、価値観が違うのも疑いようのない事実です。

ここで、自分が他人と「違う」ということは、自分に代わって他の人が違うことを体験してくれるということを意味します。つまり自分と他人が違うのは、「個々の体験を分かち合い、また集めることによって、より多くの体験を人間の知恵として蓄積できるから」ではないでしょうか。ということは「違えば違うほど面白い」また「違う人がたくさん集まるほど知恵が出る」ことになります。これこそが多くの人が存在する意味だと思います。

◆なぜ違いを認識できるのだろう?

なぜ私たちは『違い』を認識できるのでしょうか。

少し哲学的になりますが、私は「違うこと以外は『すべてが同じ』だから」と考えています。人間は、「同じ部分よりも違った部分の方に意識が向きやすい」ということをゲシュタルト心理学でも言っています。

人間に限定したとしても、脳や身体の構造はすべての人種に共通していますし、肌の色などは無限の共通点の中のわずかな違いに過ぎません。DNAレベルでは、違いを見つけることすら困難です。チンパンジーと人間の間でも、DNAの98パーセントは同じということです。共通領域には気にも留めずに、わずかに違った部分が気になって気になってしかたがないというのが人間のサガかもしれません。ケンカしている人の話を聴くと、どちらも同じことを言っていると感じることがよくあります。地球で起こる戦争にしても、宇宙人から見ると、「同じ考えにしか思えないけど、どうして争うの」と不思議な感覚を持つことでしょう。ケンカや戦争は「少しだけ違う」からこそ起こるように思います。

私が環境問題で講演していると、当然のことながら反発(反論)される人が時々おられます。しかし、よく話し合ってみると、実はものすごく考え方が似ていて、ある箇所だけが違っていたという場合がほとんどなのです

こんな理由から、私は「反発は『ほとんど意見や価値観が同じだよ』というサイン」と受け止めることにしています。

世の中のほとんどの企業で、「他社との違いを明確にして、わが社の利点を訴求せよ」と差別化戦略を謳い上げていますが、躍起になって違いを探さなければならないほど「同じ」なのです。

◆違いを『分かち合う』『活かし合う』方向に!

私は、下図のように「違い」に対して人間がたどる4つのルートがあると認識しています。

私たちは、「違い」を認知した場合、ルートBのように「分ける」ことにエネルギーを注ぎがちになります。確かに現代文明は「分ける」ことによって知識を広げ、発展してきたことは事実です。しかし、統合を忘れて「分ける」ことばかり追究しすぎたために、専門が極端に分散し、枝葉末節に陥ってしまっているのが現状ではないでしょうか。

ルートBをたどれば、「分ける」ことに飽きたらず、区別から差別、さらには奪い合いへと進み、やがて戦争などの「殺し合い」へと暴走してしまうことが往々にして起こります。せめて区別した時点で、ルートAの「認め合う」方向に軌道修正したいものです。

また、認知した後、ルートCのように「無視する」こともよくあります。これは、直面する事実を避けることになり、多くの場合、好ましいとは言えません。とくに、認知した対象が人の場合は、相手(自分の場合もある)の価値を軽視することで、人と人とのつながりを切ってしまうことになります。

私にとって最も悲しいのは、違いにすら気づかない(無関心)というルートDです。無関心というのは「無条件の愛」や「慈悲」の対極に位置します。最近の青少年の凶悪犯罪などに接し、この無関心が世間に蔓延しているように思えてなりません。

日本人の多くは「みんなと同じでないと安心できない」「人と違っているといじめられる」など、「できるだけ人と同じでありたい」という欲求が強いと言われています。

それは、とりもなおさず、「現在の日本社会がルートB・C・Dをたどっている」ことを物語っているのではないでしょうか。とくにルートD(無関心)の傾向が強まっているように感じます。

ルートAに方向転換するために、私は第一歩として「認め合う」ことから始めています。そうすれば、それが「分かち合う」喜びにつながり、やがてそれぞれの違い(個性)を「活かし合う」社会(持続可能な社会)が実現するのではないでしょうか。

【出典:拙著「これで解決!環境問題-2003年」】

この図は私(立山)の私見です。学術的に認められた定義ではないことにご注意ください。

次回はバックキャスティングという手法を用いて2100年の地球ビジョンを描いてみたいと思います。


SDGsコラム 第4回「気候変動(地球温暖化)について・その4」

SDGsコラム

 

2022年8月15日

 

こんにちは。ATC環境アドバイザーの立山裕二です。これまでエコプラザカレッジの講師として、また環境ビジネス情報の記事などを執筆させていただいておりました。

今回は、前号に引き続きSDGsの重要な課題でもある「気候変動(地球温暖化)」、特に「地球温暖化と台風との関係」について書かせていただきます。

■寒い地域も暖かくなるのなら何も問題はないのではないでしょうか?

これもよくある質問です。

確かに現実には、「地球温暖化を温度上昇とだけしか理解していない」人が多いようですね。まったくの素人ならともかく、その発言が大きな影響力を持つ知識人の中にも唖然とする見解を持つ人がおられます。次のコメントを見てください。

「地球が温暖化し世界中の水位が50㎝上昇したら多くの都市が水没してしまうといわれる。確かに水没してしまう都市の人たちにとっては困ったことかもしれないが、他の土地へ移り住めばいいだけの話である。逆に、これまで寒くて住みづらかったシベリアにとって温暖化は歓迎すべき変化であり、多くの人がシベリアに移住するかもしれない」。

これは、ある著名なオピニオンリーダーの見解です。その影響力を考えると、背筋が凍り付いてしまうのは私だけでしょうか。
その影響からか、「北海道が暖かくなり住みやすくなるから温暖化は歓迎だ」と言う声もよく聞かされます。本当にそうでしょうか。

◆北海道の流氷が・・・・!

たとえば、毎冬に北海道沿岸に漂着する流氷を考えてみましょう。

この流氷はシベリアのアムール川の淡水が凍ったものです。近海の海水が凍ったものではありません。流氷の中には、アムール川上流の森林地帯からの栄養分がたっぷり含まれています。

これが強い北風に乗って北海道沿岸にたどり着くのですが、春になって流氷が溶け出したとき、中に含まれていた栄養分が沿岸海域に広がっていきます。そのためこの地域でプランクトンが繁殖し、絶好の漁場となります。

もし、温暖化で流氷が漂着しなくなったとき、それは「北海道近海の漁場が大打撃を受ける」ことを意味するのです。

一方、もし寒くなりすぎて氷の厚みが増すと、流氷が海底をこすりながら着岸することになります。このとき、昆布などの海草類が大打撃を受けてしまいます。

私たちは、絶妙な自然のバランスの中で生かされていることを忘れないようにしたいものです。

◆永久凍土が溶けてメタンが大量に放出される

北海道よりもさらに寒い地域にあるシベリアやアラスカなどで、永久凍土が溶け始めています。永久凍土とは、水分が凍って岩石のように硬くなった土のことで、アラスカ、カナダ、シベリアなど夏も地中の温度が氷点下の地域で見られます。

温暖化が進めば、永久凍土の溶けるスピードが加速され、閉じ込められていたメタンが大量に放出される可能性があります。前述のように、メタンは強力な温室効果ガスです。

つまり永久凍土地帯から大量のメタンが放出されることによって、温暖化がますます加速されてしまうのです。

米アラスカ大が2003年4月から2004年5月まで、シベリアの湖でメタンの泡を連続観測しました。

これに人工衛星の画像の解析や飛行機による観測結果を加えて放出量を試算したところ、「地球温暖化の進行でロシア・シベリア地方の湖の下に閉じ込められていたメタンが気泡になって上昇し、大気中に大量に放出されている」ことを突き止めたのです。研究者は、メタンの作用で温暖化がさらに進む「悪循環」が始まったとみているようです。

◆南極、北極で21世紀末までに10℃以上の気温上昇

地球温暖化の重要ポイントのひとつに、「気温の上昇は南極や北極で大きく、熱帯地方では小さい」というのがあります。

どの研究機関も「気温の上昇に関しては、熱帯地方など低緯度地方よりも南極や北極地方の方がかなり大きい」という点で一致しています。

数値にバラツキはあるものの、多くの研究機関が「南極や北極地方の周辺で、100年後までに冬に10℃以上気温が上がる」と予測しているのです。

実際に、1906年から2005年の100年間で地球の平均気温が0.74℃上昇しました(IPCC第四次レポート)が、その間に南極や北極周辺では2.5~3℃ほど上昇しています。

このほか、山岳地帯にある氷河が大量に溶け出し、下流にある地域が大洪水に見舞われる恐れが出てきますし、積雪の減少によって淡水の蓄えが減り、夏期に水不足の可能性も大きくなるでしょう。

これらの例のように、寒い地域の温暖化にも問題があります。

もちろん、気温の上昇によって農作物の収穫が増える地域もあるでしょう。しかし、繰り返しますが「地球温暖化でいう気温の上昇とは、あくまでも平均気温のことであって、その過程で気候の変化、日常的には異常気象が増える」ことを言います

大きな気候変化、そしてそれに伴う大きな気温の変動や降雨パターンの変化に、農作物が対応できない可能性(収穫が減少するリスク)も考えておく必要があるでしょう。

■地球のこれまでの歴史の中でも、今の変動の大きさは問題ですか?

地球が誕生して46億年。生命が誕生してからでも、自然環境は今の温暖化なんか比べものにならないくらいの変動を繰り返してきたのです。

実際、恐竜時代(中生代)の二酸化炭素濃度は今の10倍以上あって、気温も10℃ほど高かったけど、あんなに大きな生物を養えるくらいの食べ物もあったということですし。

今の動植物もちゃんと適応していくんじゃないかな・・・・そこのところはどうなのですか?という質問も多くいただきます。

◆生態系が温度の変化についていけない

確かに地球の気候は大きく変動してきました。むしろ現在は、「奇跡の1万年」と言われるほど、安定な気候が続いています。そのために農耕が発達し、たくさんの人口を養えるようになりました。

ただし、現在の80億人からさらに増え続ける人間と数千万種とされる生物種が生きていくためには、今の安定な気候がこの先も続く必要があります。

現実には、人間がどんどん増える一方で、生物種は減少を続けています。その結果、生物種の集合体としての生態系の破壊が加速しています。その大きな原因として、乱開発や環境汚染という人為的な要因があげられます。

そして地球温暖化によって気候が大きく変化しようとしています。

温度上昇が、氷河期から温暖期への移行のように何千年という時間をかけて変化するのであれば、生態系は十分対応していくことができます。

しかし、この温度上昇がわずか100年で起ころうとしているのです。生態系はこれほどの急激な変化にはついていけません

◆日本も他人ごとではない

温暖化で日本が熱帯並みの気候になり、ヤシやハイビスカスなどの熱帯性の植物が植生する。

・・・・なんてことは有り得ないのです。

熱帯性の植物には熱帯の土(腐植土・腐葉土)が必要です。ところが温度が高いと、落ち葉や動物の死骸が土にならずにほとんどが分解してしまうのです。そのために熱帯性の気候では、1センチの土ができるのに数百年もかかります

一方、急激な温暖化は、今存在している温帯の植生にも深刻な影響を与えることになります。地表で活動している微生物やバクテリアが、地表温度の急上昇に適応できない可能性があるのです。

するとミミズや昆虫がエサがなくなって飢え死にします。その結果、土が死に、森林が消え、動物が生きる場を失います。

このようなことは、2℃程度の温度上昇であっても起こると予想されています。特に森林地帯への影響が深刻で、IPCCは「温暖化による気温上昇によって、今後100年間で等温線が150~550キロメートル高緯度側に移動し、地球の全森林面積の3分の1で植生が何らかの変化を受ける。また、病害虫・火災の増加などによる森林損壊で、より大量の二酸化炭素が放出される」と予測しています。

◆生物の絶滅速度は過去の100~1000倍

恐竜の絶滅は一瞬に起こったように誤解している人が多いのですが、実は数百万年間にわたって徐々に進行したものなのです。それに比べて現在の、そして将来予測される生物種の絶滅速度は、はるかに大きくなっています。

このことについて、少し前ですが、平成19年版【環境・循環型社会白書】には次のように書かれています。

ミレニアム生態系評価によれば、人類は、そうした自然に起きる絶滅と比べて100~1000倍もの速い速度での種の絶滅をもたらしていると試算されています。

過去の生物の化石などに関する研究成果から、多くの生物が同時期に絶滅する「大絶滅」が過去5回発生したことが分かっていますが、現在の絶滅の状況はこれらをしのぐ規模で進行しており、人類が引き起こした6回目の大絶滅と言われます。


【図表:種の絶滅速度】

 

※ミレニアム生態系評価
国連の主唱により2001年から2005年にかけて行われた、地球規模の生態系に関する総合的評価。95ヵ国から1360人の専門家が参加。生態系が提供するサービスに着目して、それが人間の豊かな暮らし(human well-being)にどのように関係しているか、生物多様性の損失がどのような影響を及ぼすかを明らかにした。

次回も引き続き、「気候変動(地球温暖化)」についてさらに詳しく見て行くことにします。


特別コラム 第28回「グリーンクリエイターを育てる『環境共育』その2」について

コラム

 

2022年7月31日

 

こんにちは。ATC環境アドバイザーの立山裕二です。これまでエコプラザカレッジで環境経営やSDGsなどについてセミナー講師を務めさせていただいておりました。

今回は、グリーンクリエイターを育てる『環境共育』について、アイデアを引き出すコツをいくつかご紹介したいと思います。

4.地球にやさしい行動……それも大切ですが……その前に!

環境共育の中で、「地球にやさしい行動」の数々を教えています。もちろん大切なことですが、先に「まずは自分自信で考えてもらし、アイデアを引き出すことが必要」と述べました。

しかし、「予め答えが決まっている問題」や「二者択一の○×問題」を与えられてきた人にとって、「自分で考えること」には慣れていないようです。そこでここでは、アイデアを引き出すコツをいくつかご紹介したいと思います。

◆なぜ私たちは自動車に乗るのだろうか?

「自動車(マイカー)の利用を減らし、アイドリングをやめよう」

もはやこんなことは常識ですね。自動車が二酸化炭素を排出し、大量のエネルギーを消費することは、どの環境関連の本にも書いてあります。

自動車より、バス、バスより電車、電車より自転車、自転車より徒歩の方が、二酸化炭素削減にも省エネに役立つことはいうまでもありません。しかし100メートル先にタバコを買いに行く際でも車に乗る、という人もたくさんいますし、郊外から大渋滞に巻き込まれながら都会にマイカー通勤(ほとんど一人乗り)という光景もよく目にします。

この人たちに、「マイカーの利用を減らし、アイドリングをやめよう」と言っても「そんなことくらい知ってるよ。でも車がないと仕事ができなくなるし・・・・」という予想できる反論(言い訳)が返ってくるだけでしょう。また「アイドリングという英語は、日本語でムダという意味ですよ」と教えても、「そんな屁理屈言うな!」と一喝されそうです。

言ってもムダということで、法律や条例で規制するという方法がとられますが、徹底されなければまったく効果を発揮しません。

それでは、というわけで今度はハイテク装置を車に組み込んで、アイドリングをできなくしたり(エコアラームなど)、車の走行記録をとったり(飛行機のボイスレコーダーの自動車版)とあの手この手が考えています。

これらのことはまったくムダということはありませんが、その前に次の2つのことが必要と考えます。

ひとつは、「地球環境問題(SDGsの課題)の現実を実感する」ということです。もうひとつは、「私たちはなぜ自動車に乗るのか?」という問いかけをしてみることです。

車を手足のように使いこなしている人にとっては、車はまるで空気のようなものです。彼ら(彼女ら)はほとんど無意識のうちに運転しているため、「どうして乗るのか?」など考えたことがないのかもしれません。

体の不自由な人や超寒冷地で車を運転せざるを得ない場合は別にして、「よく考えてみると、確かに必要ない場合でも何気なく車を運転しているな」ということに気づくかもしれません。

そして、「自動車よりも自転車や徒歩の方が健康にも良いし、よし!、本当に必要なときだけ車に乗ろう」と思えばしめたものです。皆さんも一度、家庭や職場で話し合って見てはどうでしょうか。

体の不自由な人や超寒冷地に住む人は、みんなで助け合ってカーシェアリングなどで車を共有することも今以上に進めることも大切です。

この場合、パートナーシップを活用し、またそれぞれのパートナーシップをつなげ、より大きなパートナーシップを育てていく活動が望まれます。

◆なぜテレビを見るのだろうか?

「電化製品の利用を減らそう」「使わないときは主電源を抜こう」

これらのことも、誰でも知っていることですね。しかし、なかなか徹底できないのが本音のようです。

これも、「地球環境問題(SDGsの課題)の現実を実感する」ことが徹底への道のひとつです。そしてさらに大切なのは、「私はなぜテレビを見るのだろうか?」と自問してみることです。

私も独身(ひとり暮らし)の時、夜自宅に帰って真っ先にすることは、テレビをつけることでした。別に見たい番組があるわけでもなく、ただ何となくとしか言いようがありません。ただ寂しかっただけなのでしょう。

子供の頃を思い出すと、もちろん面白くて必死に見るということもありましたが、「アニメのストーリーを覚えていないと友だちとの話題についていけない。仲間はずれになりたくない」という思いがあったことは否定できません。

テレビを見る理由が、「寂しいから」とか「仲間はずれになりたくないから」という思いであることが分かると、この思いを満たす方法はテレビ以外にいくらでもあることに気づきます。気づいた人は、「テレビを見るな」といわれるまでもなく、何か別のことをするようになるでしょう。

子供たちの場合なら、テレビを見ない変わりに「みんなで遊ぶ」という選択肢がありますもし誰かひとりがテレビを見たとすると、その子が少数派となり、寂しい思いをすることになるのです。

ある意味、(テレビ)ゲームは「みんなで遊ぶ」というメリットがあります。ただヤリ過ぎで別の問題が出てくるので注意しなければなりません。

この場合も、「皆で考えて対処する」という基本を大切にしたいものですね。

◆なぜ、テレビがつくまで待てなくなったのか?

「待機電力をなくすために、リモコンを使わないようにしよう」

テレビやビデオの待機電力をなくすためにリモコンを使わなければ、10%も消費電力が削減できます。この他にもコピー機やFAXなど待機電力がかなり大きな電化製品があります。したがって、「待機電力をなくすために、リモコンを使わないようにしよう」というのは、非常に有効な方法といえます。

しかし、これまでの例と同様に「リモコンを使うな」というだけでは、せっかくの大きな気づきのチャンスを失ってしまいます

ここで、少し時間を使って「なぜテレビなどの主電源を入れて、画面が出てくるまでの数十秒が待てなくなってしまったのだろうか」と考えてみてはいかがでしょうか

確かに最近のパソコンなどはプログラムが大きいので、主電源を入れてから使用可能になるまでかなりの時間がかかるものもありますが、それでもせいぜい1~2分といったところでしょう。

ほんの10年ほど前までは、5分くらい待っても平気だったように思います。そういえば、信号待ちでも最後まで待ちきれない人がたくさんいるし、10分程度の電車やバスの時間待ちが長く感じられることもよくあります。飛行機などで予め座席も到着時刻も決まっているのに、搭乗者の列に割り込もうとする人も少なくありません。

なぜこんなことが起こるのでしょうか?……時間が惜しいから? イライラするから?

ではなぜイライラするの?……思い通りにならないから。なぜ思い通りにならないとイライラするの?……いつも一刻を争う社会に生きているから……、など自問自答を繰り返してみましょう。

ひょっとすると、自分の中にある満たされない心に気づくかもしれません。

私の場合は、「あれもこれもしなければ……」という『あせり』が原因でした。このことに気づいてからは、「いっぺんに一つのことしかできないのだから、一つずつ片づけていけばいいや」と思えるようになり、待つことが苦痛でなくなったのです(いつもというわけではありませんが……)。

環境にやさしい行動を一つひとつ実践することは大切です。ただ、その前に「私はどうして~するのだろう」と自問することをおすすめします。そうすれば、自分に気づき、肩の力が抜けてきます。生活が自然体で、楽しくなります。長続きします。結果として、地球にもやさしくなります。この方法は、環境共育にも気づきを促すという点で、大いに役立つでしょう。まずはお試しあれ!

4.究極の環境共育は、お年寄りから学ぶこと

◆子供たちが、お年寄りを尊敬するコミュニティ

今、私たちがしなければならないことは、最も身近な「生命のつながり」である「家族のきずな」を強くすることだと思います。その中でも、「おじいちゃん、おばあちゃんとの絆」を取り戻すことが最優先課題だと思います。早くしないと、大いなる知恵が失われてしまいます。

そこで私は、次のような子供たち向けの環境共育プランを考えました。まだ数は少ないですが、かなり好評です。皆さんの街でも、ぜひ取り組んでみませんか。

なお、以下、「おじいちゃん、おばあちゃん」を一緒にして「お年寄り」としていますが、ここでは「尊敬語」と解釈してください。

環境共育プラン:お年寄りと子供たちとの出会いの場づくり

①地域のお年寄りと子供たちに集まってもらう。
②まずインストラクターが、ドイツの環境への取り組みを紹介する。

ゴミが著しく減少していること、リサイクルが進んでいること、量り売りや、はだか売りをしていること、包装が簡素なこと、マイバック持参のこと……などを説明します。

③日本の現状(ゴミの量・過剰包装・レジ袋など)を報告する。
④お年寄りの代表に子供の頃のことを話してもらう。

ドイツがしていることは子供の頃は当たり前だったこと。そして、風呂敷を取り出し、買い物袋やビン入れなど、いろいろな使い方ができることを実演します。

→子供たちの目が輝いてきます(お年寄りってカッコイ!)。

⑤子供たちに、「おじいちゃん、おばあちゃんてカッコイイだろう」と問いかける。
⑥お年寄りに「これからも自信を持って、子供たちにいろんなことを教えてください」とお願いする。
⑦街のあちらこちらで、子供たちとお年寄りとの挨拶が始まる。
⑧お年寄りと子供が楽しく語らうことが多くなる。

何回も同じ話をするお年寄りと、何回同じ話を聞いても飽きない子供たち。
この出会いによって、知恵が孫の世代に伝わることになります。

⑨子供たちがお年寄りを尊敬する。
⑩街中から笑い声が聞こえる。家族の団らんが復活する。
⑪素晴らしいコミュニティが誕生する。結果として、環境も美しくなる。

私の経験の範囲ですが、住民同士の仲がいい街はゴミのポイ捨てが少ないようです。

仲がいいと、ゴミがどこに落ちていようと積極的に拾います。きれいなところにはゴミを捨てにくいものです。

反対に仲の悪いところでは、ゴミを拾うどころか押し付け合い、散乱したままになります。ゴミが多いところほど、ポイ捨てされやすいようです。「うちの街はゴミのポイ捨てが多くて困っている」と嘆く前に、「自分たちにも原因があるのではないか」と自省してみてはいかがでしょうか。

このように、「お年寄りと子供たちが仲良く集う街づくり」を始めてみてはいかがでしょうか。お年寄りが役割を見つけて生き甲斐を感じ、子供たちがお年寄りを尊敬し、心からいたわる。このような街で、いじめや差別が起こるでしょうか。環境のことを考えない子供が増えるでしょうか。

子供たちが受け継いだ「知恵」は、ずっと後世まで受け継がれていくことでしょう。

明るいコミュニティづくりこそ、持続可能な社会を実現させる「究極の環境共育」ではないでしょうか

◆お年寄りから学んだ「ありがとうサイクル」のすすめ

私はシニア(?)大学など、お年寄りの方々に講演させていただくことがよくあります。
と言いながら、私もお年寄り(初期高齢者?)の仲間になりましたが・・・・。

その熱心さ、目の輝きはまさに青春真っ盛りのようです。講演しているようで、実は私の方が勉強させていただいています。

たくさんのお年寄り(精神的若者)にお会いして、日本人の心を学ぶことができました。

その中に、「ありがとうサイクルの実践」というものがあります。これはたくさんの方との対話の中から浮かび上がってきたものですが、たいていの「成功し続けている経営者」や「尊敬されている偉人」にも見られる共通点で、かなり普遍性があるようです。

一見、古くさいように感じるかもしれません。しかし私は、このような「排他的でない宗教心や道徳心」は、持続可能な社会を創るために大いに役立つと信じています。

すべての物事に「ありがとう」と言おう。これは、人間の心のあり方として、太古の時代から言い伝えられてきました。確かに「ありがとう」と言うと心が安らぎますし、何かしら大いなる存在に抱かれるように感じます。

一口に「ありがとう」といっても、その中には「有り難し」「もったいない」「お陰様」という3つの気持ちが渾然一体となっているようです。

①有り難し 

これは、「希少価値を得たことに対する嬉しい気持ち」です。文字通り「有ること難し」。最大の「有り難し」は、「今、生きている」ということでしょう。

②もったいない

勿体ない、つまり「たくさんある物をやたらに使っては惜しいという気持ち」です。昔、水はふんだんにあるにもかかわらず、おじいちゃん、おばあちゃんたちは「もったいない、もったいない」と言って大切にしていました。後世のすべての「いのち」のために、杓に汲んだ水のうち半分を元に戻すという「半杓の水」という故事も残っているほどです。

もし、現代人が「有り難し」「もったいない」という気持ちを石油や鉱物、熱帯林などに向けていれば、資源枯渇の問題や環境問題もこれほど深刻にならなかったでしょう。

なお「有り難し」「もったいない」の解釈については、松原泰道老師の『人徳の研究』(大和出版)を参考にさせていただきました。

③お陰様

お陰様とは、「見えない存在が助けてくれていることを喜ぶ気持ち」です。「どこのどなたか存じませんが、皆様の陰徳のお陰で、今こうして生きさせていただいています」という心です。「俺が、俺が」という人は目立ちますが、見えない所で善行を積んだり思いやりを示す人、つまり「陰徳を積む人」は姿を現わしません。しかし、過去から今まで、また世界中に無数に存在するのです。この人たち(実際には、人間だけでなく、あらゆる動植物、空気、水、太陽、万有引力などすべて)を思う気持ちが「お陰様」となって表れるのだと思います。

★感謝について                                                           

ところで「ありがとう」と同じような言葉に「感謝」があります。あるとき、感謝の「謝」には「許してください」という気持ちが込められていることを知りました。そのとき、感謝の謝は、「有り難し」「もったいない」「お陰様」という3つの恩に報いていないことに対する「許してください」という気持ちを表していることに気づきました「私はこの3つの恩を頂き本当に有り難いことだ。しかし、自分はこの恩に報いているだろうか。自分の使命を果たしているだろうか。まだまだ恩に報いていないし、使命も果たしていない。こんな拙い私を許してほしい」。これが「感謝の気持ちを表す」ということだと思います。

感謝の気持ちの表明によって、自分を「反省」する。そうすることで「謙虚」になる。そしてこのように思える自分に「ありがとう」と言い、その自分を育んでくれるすべての存在に「ありがとう」の気持ちを伝える。そしてまた、3つの気持ちを抱き、感謝する。

これを私は「ありがとうサイクル」と名づけました。実際には、一回りしてきたときには1段階進化しているので、「ありがとうスパイラル(らせん)」とも言えると思います。

以前私は、「『地球に優しい人』とは、『地球に対して(環境汚染や利己主義を蔓延させて)やせるほど恥ずかしい、と憂いたすえに、本当の思いやりを持つようになった人』と言うことができる」と書きました。まさに「ありがとうサイクル(スパイラル)」は、お年寄りという人生の大先輩が教えてくれた「地球にやさしい人」になるための道標です。自信を持って、後世に伝えていきたいと思います。

次号では「グリーンクリエイター』として生き方(活き方)について、まとめてみたいと思います。


SDGsコラム 第3回「気候変動(地球温暖化)について・その3」

SDGsコラム

 

2022年7月15日

 

こんにちは。ATC環境アドバイザーの立山裕二です。これまでエコプラザカレッジの講師として、また環境ビジネス情報の記事などを執筆させていただいておりました。

今回は、前号に引き続きSDGsの重要な課題でもある「気候変動(地球温暖化)」、特に「地球温暖化と台風との関係」について書かせていただきます。

■地球温暖化と台風

◆温暖化で台風が巨大化?

地球温暖化で地球の気温が上昇すると、台風やハリケーンなど熱帯低気圧が巨大化すると予想されています。海水表面温度が高くなって、熱帯低気圧にエネルギーがどんどん補給されるからです。

そして日本沿岸など、比較的緯度が高いところで水温が高くなるので、熱帯低気圧(以下台風)の勢力が非常に強いまま沿岸地帯に上陸する可能性が強くなると考えられます。

現在の台風は、はるか南方海上では猛烈に発達していたとしても、上陸する頃にはかなり勢力が衰えています。

これは、沿岸部に近づくにつれて海水温度が低くなり、水蒸気(エネルギー)の補給が少なくなるからです。

しかし温暖化が進めば、沿岸部に来てもどんどんエネルギーが補給され続けるので、猛烈な勢力を維持したまま上陸する可能性が強くなるのです。

地球温暖化で海面が上昇するうえに、台風が巨大になり、しかも勢力が衰えないとしたら、沿岸地域は防災上で大きなリスクを負うことになります。

◆あまり語られない台風とフェーン現象の関係

台風が巨大化することで、フェーン現象による気温の上昇と乾燥化が激しくなると思われます。

台風が大型化すると、さらに湿った空気によってフェーン現象が強まる可能性が高まります。台風が巨大になれば、日本から離れていても、いや日本から離れているからこそ、(台風本体の雲が日本上空にかからないので)フェーン現象に注意を向けないといけないのです。

とりわけ北陸や東北地方の日本海側では、山越えの強風が吹き下ろす場合に気温上昇が予想されます。しかも、大気が極端に乾燥し、大火が発生するリスクが極めて大きくなります。太平洋側でも、湿った強風が山地を超える可能性のある地域は要注意です。

例えば、紀伊山地越えの阪神地域、四国山地越えの瀬戸内地域、中部山岳越えの長野県や岐阜県などは、フェーン現象を警戒する必要があります。

地球温暖化で平均気温が2℃上昇すると、取り返しのつかないことになるとされていますが、フェーン現象は0.5℃程度の上昇でも大きな温度上昇と深刻な影響を及ぼすでしょう。

◆台風が通り過ぎた後は?

台風が通り過ぎると風向きが反対になり、進路によっては北側の寒気を引き入れることがあります。すると、今度は急激な気温の低下が起こります。急激な温度変化は、人間の健康や生態系にとって悪影響を及ぼすことは言うまでもありません。

この時、フェーン現象による高温化と寒気による低温化が相殺され、平均気温に影響を与えない可能性があります。しかし現実には、大変な気温変化が起こっていることに注目してください。

前にも触れましたが、地球温暖化でよく使われている数値は、あくまでも平均気温です。わずかな平均気温の上昇であっても、日々の気温変化(気象変化)が著しくなる可能性が高いと言うことを知っておいてくださいね。

このように、フェーン現象の頻発化と台風の巨大化は、私たち日本にとって「今そこにある危機」なのです。

ワンポイント講座:ハリケーンの方が台風よりも強力?

2005年8月29日、米国ルイジアナ州ニューオーリンズ付近に超大型ハリケーン「カトリーナ」が上陸し、甚大な被害をもたらしました。この災害をきっかけに、米国では気候変動の脅威に対する認識を新たにする人が激増し、地球温暖化防止への動きが活発になってきています。

実は、カトリーナ(ハリケーン)の脅威は、そのまま我が国に当てはまるのです。しかし、それを実感している日本人は非常に少ないのが現状です。

どうしてなのかを街で尋ねてみたところ、驚いたことに「台風はハリケーンより小さいから大丈夫」という声が大多数を占めていたのです。環境問題に関心の高い人でも、同様の意見が多いようでした。でも、これは大きな誤解です。

数字だけを見ると、台湾に上陸した2007年最強の台風8号の最大風速55mm(秒速)はカトリーナの77m(同)に比べて弱く思えます。しかし、これは台風とハリケーンとでは風速の測定基準が異なるためなのです。

台風は「10分間の平均風速」でハリケーンは「1分間の平均風速」なのです。1分間平均は、だいたい10分間平均の1.3倍になるとされています。

すると台風8号は1分間平均では約72m(秒速)となり、カトリーナに勝るとも劣らない強さであったことが分かります。事実、台風8号はカトリーナと同じカテゴリー5のスーパー・タイフーンに分類されているのです。

◆カトリーナを凌ぐ伊勢湾台風

実は未来の話ではなく、すでにカトリーナと同等以上の台風がいくつか存在するのです。伊勢湾台風や第2室戸台風です。

ここで伊勢湾台風とカトリーナを比較してみましょう。

【図表:伊勢湾台風とハリケーン・カトリーナとの比較】
※最大風速の値[A/B]は、Aが10分平均、Bが1分平均です。

 

台風は10分平均×1.3、ハリケーンは1分平均÷1.3として換算しています。

この表を見ると、伊勢湾台風はハリケーン・カトリーナよりむしろ強いくらいです。

両者の著しい違いとしては、勢力を強めていた位置が挙げられます。伊勢湾台風は、北緯15~20度で発達し、弱まりながら北上しました。一方、カトリーナは北緯25度付近で発達し、最盛期に近い状態で上陸しました。これはカトリーナが水温の高いところを通ってきたことを示しています。

ニューオーリンズは北緯30度付近にあり、日本地図に当てはめると屋久島のやや南に相当します。伊勢湾台風がこの位置にあった時は、最大風速が毎秒60m(10分平均)あり、カトリーナの毎秒55m(10分に換算)を上回っています。ちなみにこの時、伊勢湾台風の暴風半径は350kmあり、カトリーナの180kmの2倍の大きさだったのです。

以上のことから、もし日本の太平洋沿岸の海水温度が北緯30度並みに、あるいはそれ以上になれば、台風が最盛期の状態で直撃する可能性が大きいと言えるのではないでしょうか。

私たち日本人は、伊勢湾台風(死者・行方不明5098名)やカトリーナ(同1856名)のような惨劇を繰り返さないように早急に防災体制をさらに強化する必要があります。

そして、地球温暖化を防止(抑制)することで、少しでも海水温度の上昇を抑えるよう努力したいものですね。

◆復旧不能な大停電が起こる?

今後、伊勢湾台風を上回るような暴風雨に襲われた場合、建造物の多くが倒壊するでしょう。その中には公共施設も含まれます。

例えば60mを超えるような暴風が吹くと、送電線を支えている鉄塔が倒壊する可能性が高くなります

さて、ここで質問です。

広範囲で倒壊した送電鉄塔を誰がどのようにして復旧させるのでしょうか?

山間部で鉄塔を修復しようとしても、倒壊数が多く、しかも山崩れや洪水などで道路が寸断されているのです。二次災害の恐れも高く復旧は困難を極めるでしょう。そうなると、遠方の発電所からの送電に頼っている都市部で復旧不能な大停電に見舞われる可能性があります。

◆電気(エネルギー)の地産地消へ

温暖化を防止するには、発電時に二酸化炭素を発生させない原子力発電所が有力とされています。ライフサイクル全般で考えて、原子力発電が最も環境負荷が小さいかどうかは議論が分かれるところです。また危険か安全かという論争も続いています。

しかし、そのような議論や論争は、送電が続くという前提があってこそ成り立ちます。もちろん議論や論争自体は悪くないのですが、それと同時に大停電に対するリスク対策を徹底しておく必要があります。

1つは大停電しても大混乱が起こらないような対策であり、もう1つは大停電が起こらないような対策です。

前者の場合は、電気を使わなくてもすむような街づくりですが、今すぐ取りかかったとしても完了まで長期間を要するでしょう。

後者の場合は、遠くの電気に頼らない対策、つまり「電気の地産地消」が考えられます。食料の地産地消と同様に、太陽熱や太陽光発電、風力発電、波力発電、地熱発電など地域の特性に応じた電気の供給源を身近な場所に設けることです。

もちろんこの場合も、60m以上の暴風に耐えることが必要ですが、立地が近いので倒壊した場合でも比較的復旧が容易です。

ここで重要なのがコストの問題ですが、送電鉄塔の倒壊(大停電)というリスクを考えると、少々高くついても致し方ないと思います。しかも原油価格が高騰を続けると、コストが高いとは言えない状況が生まれます。資源の枯渇に向かっている現在、今の原油高は決して一時的なものではないと思われます。

◆低炭素社会から低エネルギー社会・脱炭素社会、そして低資源消費社会へ

日本もようやく低炭素社会への移行を検討し始めました。低炭素社会とは二酸化炭素の排出が少ない社会のことで、二酸化炭素を発生させる炭素を含む化合物の使用を削減することを目的にしています。最近は低炭素社会から脱炭素社会を志向しています。

2007年2月に環境省が発表した「脱温暖化2050プロジェクト」の成果報告書によると、「我が国が、2050年までに主要な温室効果ガスである二酸化炭素を70%削減し、豊かで質の高い低炭素社会を構築することは可能である」と結論づけています。

これは素晴らしい進展です。しかし、「1990年に比べて2005年から2012年までの間に温室効果ガスを6%削減する」と約束している京都議定書の目標ですら達成できなかった状況では、世界各国から本気かどうか疑われても仕方がありません。

私たちは、政府に任せるだけでなく、個人個人が積極的に低炭素社会を実現させることに関わっていかなければなりません。全力を尽くして実践の輪(環・和)を広げていこうではありませんか。

そのために、あらゆる人たちがパートナーシップを結びアイデアを出し合い実現に向けて実践することが、温暖化はもちろんSDGsを達成するために不可欠のことだと思います。

ただ私としては、「低炭素社会(脱炭素社会)を実現するには、原子力発電の推進が必要」という前提が含まれていることに懸念を抱いています。

それは、「事故やテロ発生時のリスクが大きい」とか「核廃棄物の処理ができない」ということだけではありません。例えば「台風などによる暴風で送電鉄塔が倒壊し、復旧不能な大停電が起こる」問題に対してです。送電ロスのほとんどない電線が実現したとしても、倒壊というリスクがなくなる訳ではありません。そのためには「送電鉄塔が倒壊し、復旧不能な大停電が起こる」問題を単なるコストではなく、国防問題として捉えることが必要なのではないでしょうか。

近未来については、現状の電力消費量をまかなうために原子力発電を過渡的に使うのは已むを得ないと思います。しかし、この期間を最小限にするために私たちは、「脱低炭素社会」から「低エネルギー社会」に移行する必要があります

そして、最終目標は「低資源消費社会」の実現です。すべてを最小の資源でまかなうことのできる社会これを達成して初めて、「循環型社会という循環に近いけれども、循環そのものではない社会」を経て、真の「循環社会」が実現するのではないでしょうか。

次号では気候変動の問題について、さらに詳しく考えてみたいと思います。


特別コラム「グリーンクリエイターを育てる『環境共育』その1」について

コラム

 

2022年6月30日

 

こんにちは。ATC環境アドバイザーの立山裕二です。これまでエコプラザカレッジで環境経営やSDGsなどについてセミナー講師を務めさせていただいておりました。

今回は、「グリーンクリエイターを育てる『環境共育』」について考えてみたいと思います。

■グリーンクリエイター(私の造語です)を育てる『環境共育』

環境教育についての議論が様々なところで行われています。よい傾向だと思います。ただ、(何でも知っている)大人が(何も知らない)子供に一方的に教えるという愚だけは避けたいものです。

地球環境問題やSDGsについてすべてを熟知している人は、世界中のどこを探しても存在しません(環境問題の一部に詳しい人はおられますが・・・・)。それほど範囲が広くて奥深い問題なのです。大人も子供も五十歩百歩です。いや、子供の方が感受性が強い分、この問題の本質をつかんでいるように思えます。

その意味で、環境教育は、大人と子供が共に育て合い、育ち合う「環境共育」でなければならないのです。

ここでは、これからの環境共育のあるべき姿をいくつか提示してみたいと思います。

1.知恵を引き出す

「電気代がムダだからテレビを消しなさい」
「地球環境を守るためにエアコンは使ってはいけません」

地球環境問題を知って驚いたお母さん(お父さん)は、子供にこのように言うかもしれません。しかし、突然このように言われた子供はたいていの場合、いま風に言えば「むかつく」でしょう。「環境にやさしくするために」と教える項目の多くは、「~しなさい」「~してはいけない」という形で表現されています。

少なくともこれらは、地球にやさしいかもしれませんが、子供にとっては「やさしい(表現)」とは言えません。しかも、このような項目が50も100も並んでいると、覚えることも難しいし、一つひとつに気を使いながら生活するのは大変窮屈で、とても長続きはしないでしょう。

さらに、このような指導は「子供の創造性を奪いかねない」という深刻な問題があります。というのは、子供に「指導(命令)に同意するか拒否するか」という2つの選択肢しか与えていないことになるからです。

たとえば、「テレビを消しなさい」という命令は、テレビを消すか消さないか、また「エアコンを使ってはいけません」というのは、「エアコンを使うか使わないか二者択一の選択をせよ」と親が迫っているように子供は受け取る可能性があります。二者択一の選択しか与えられない子供に創造性が育つでしょうか。

このようなときは、次のように子供に思いを伝えるとどうでしょうか。

「今日、地球環境問題の講演会に行って本当に驚いたの。~講演の内容をかいつまんで説明する~地球がこんなに破壊されているとは全然知らなかったの。何にも知らなかった自分自身が情けなくって、これからは地球にいいことを何かしようと思ったの。太郎ちゃんも何ができるかお母さんと一緒に考えてくれる?」。

こうして素直に心の内をうち明けられると、子供は「多くの選択肢を残してくれている(信頼されている)」と感じ、「お母さんと一緒に考えよう」と思うのではないでしょうか。

そして、持ち前の想像力を発揮して、素晴らしいアイデアをどんどん出してくるはずです。その中に「テレビを消す」とか「エアコンを使わない」というアイデアも含まれているでしょう。しかも、今度は自分で決めたことなので、きちんと守る可能性は高いのは当然です。

そのうち「テレビを見る時間を今の半分にする」とか「エアコンの温度を夏は30度にして上半身はTシャツだけにする、冬は15度にしてセーターを1枚重ね着する」というような誰にでも実行できそうな具体案が必ず出てきます。

そして、いくつかの具体案を模造紙に書き出し、いつも見えるところに張っておき、家族全員で実行するのです。自分の意見が尊重されたと感じた太郎くんは、ますます豊かな想像力に磨きがかかるに違いありません。

このように環境共育は、子供(もちろん大人も)から知恵を引き出し、創造性を高めるために使いたいものです。「環境にやさしい行動」の数々を周りの人たちに教えて実施させるのではなく、地球環境の実態を話してみたり、自分の思いを伝えることで、その人たちからアイデアを引き出すことが大切です。

もちろんSDGs教育も大人も子供も一体となって育ち合う『共育』であり、環境共育と同様です。

まずは自分自身で考えてもらい、ひとしきりアイデアが出そろったときに、「こんなアイデアもあるよ」と紹介するのが効果的だと思います。

2.環境共育はまず大人から

環境共育(SDGs共育も)で大切なことは「思いやりの心を育む」ことだと思います。地球が今どう変化しつつあるか、どのように語りかけているかを聴き取れる感受性を育てたいものです。

私たちが本来持っている「思いやりの心(やさしさ)」を育てるには、自然に触れるのが一番だと思います。山奥の森林や渓流の中で「自然の景色や音」と戯れるだけで、心からの安らぎが得られ、「思いやりの心(やさしさ)」が甦ってきます。

また、時には、突然の雷雨や暴風、逆巻く激流、猛獣の雄叫びに震えながら自然に畏怖するのも、「思いやりの心(やさしさ)」を体感することになるでしょう。年に何度かはこうした体験を持ちたいものです。

ところで、一年中大都市で生活している私たちが「思いやりの心(やさしさ)」を育む方法はないのでしょう。実は、毎日の生活の中で実行できる方法があるのです。

たとえば、通勤・通学や買い物でいつも通る道に、どのような草花や樹木が生きているかお気づきでしょうか。「えっ?、そんなのあったかなあ」とか「確かに草花はあったけど、はっきり覚えていない」という方が多いかもしれません。さっそく、今日からよく観察してみませんか。きっと、思った以上に多くの草花や樹木が育っていることに驚かれるに違いありません。

また、どんなところでもたくましく育つ雑草を見て、「雑草と決めつけてゴメンね。君たちは素晴らしい生命力を持っているね」と感動することもあるでしょう。そして、毎日観察していると、「昨日は花が3つ咲いていたけど、今日は4つ咲いている」ということが分かるようになり、ついには「今日はいつもと比べて寂しそう」というように微妙な変化に気づくようになります。

そしてやがて、草花と会話ができるようになるかもしれません。これは決して超能力ではなく、本当のやさしさを思い出して大きく育てれば、誰でも顕在化する能力のひとつのような気がします。

ただし、この方法は子供だけではなく、むしろ私たち大人が初心に戻って体験してみることが大切です。子供の世界に「いじめ」があるのは、大人の世界に「いじめ」があるからに他なりません。私たち大人が変われば確実に子供は変わるでしょう。ひょっとして、子供はとっくに変わっていて、変わっていないのは大人だけかもしれませんが・・・・。

3.イメージできるように工夫する

人間は、結果がイメージできていると行動に結びつけやすいものです。反対に、イメージできないことは、なかなか実行が困難です。環境共育でも、イメージがはっきり浮かぶような工夫が大切です。

たとえば、ゴミ問題の大変さと解決策をイメージする方法をあげてみましょう。

ささいなことでも、これが何千万人も集まると考えられないくらいの効果があります。ひとり1㎏のゴミも日本全体では4千数百万トン。1㎏という重さはイメージできるでしょう。では、4千万トンは?・・・・たいていの人は、おそらく見当もつかないでょう。

東京ドーム115個分といっても、まだピンとこないかもしれませんね。ここでまず重要なことは、「1㎏というイメージできる量が日本の人口分集まると、イメージできないような量になってしまう」ということです。

この事実をプラス発想に使いましょう。一人ひとりの省エネはわずかでも、日本の人口分いや世界の人口分が集まれば想像を絶する効果が生まれることになります。

このことを実感する面白い方法があります(学校の場合)。

たとえば、全校生徒にひとり1個ずつ空き缶を拾って学校に持ってきてもらいます。そして、それを校庭や体育館の1カ所に集め、ひとり1個でも全校生徒分集まればすごい量になることを見てもらいます。

次に、誰かを指名して「この空き缶をひとりで処理してください」とお願いするのです。指名された生徒は、絶句するか「こんなのひとりでは無理です」というと思います。そのとき、「では、持ってきたときと同じように、全員ひとり1缶ずつ持ち帰ってください」とお願いするのです。そうすれば、あっという間に空き缶の山が消えるのが実感できるでしょう。

そして、最後にリーダーが「『自分ひとりくらい』の集合が空き缶の山、『自分ひとりでも、自分ひとりから』の集合で空き缶の山が消えるのが実感できましたか。だったら、ひとり2缶だともっと素晴らしいことが起こりますね。でも空き缶が出なければ、拾う必要もなくなりますね」ということを伝えるのです。

生徒数が少ない場合は、町内会などで、また会社内で実施してみてはいかがでしょうか。

このように、イメージできること、実感できることを「みんなで創り出して」みましょう。「みんなで創り出す」。これこそが、本当の意味で「環境共育」といえるのではないでしょうか。

次号では、「グリーンクリエイターを育てる『環境共育』その2」について書きたいと思います。


SDGsコラム 第1回「気候変動(地球温暖化)について・その1」

SDGsコラム

 

2022年6月15日

 

こんにちは。ATC環境アドバイザーの立山裕二です。これまでエコプラザカレッジの講師として、また環境ビジネス情報の記事などを執筆させていただいておりました。

今回からは、環境ビジネス情報とは別に、SDGsの重要な課題である「地球温暖化(気候変動)」について書かせていただきます。

では、地球温暖化(気候変動)の基礎から学んでいきましょう。

■地球温暖化って言うけれど・・・・

◆そもそも地球温暖化って何ですか?

地球温暖化とは、文字通り「地球の気温が上昇すること」です。

ただ環境問題としての地球温暖化は、「人間の活動に伴って温室効果ガスが大気中で増加することで温室効果が高まり、地球表面付近の平均気温が上昇していく現象」のことを意味しています。

ここで重要なのは、「地球温暖化の原因が人間の活動によるものとしていること」と「温度上昇とは、あくまでも平均気温の上昇を意味すること」です。

これらをハッキリさせておかないと、「地球温暖化の原因には、太陽活動の活発化など自然現象もあるはず」という当たり前のことや、「温度が低下しているところもある」という局地的な話が出てきて、頭の中が混乱してしまいます。

専門家はどう言っているかですが、最初にIPCCが2021年に公表した「第6次評価報告書」の概要を見てみましょう。

※IPCCとは?

「気候変動(気候変化)に関する政府間パネル」のこと。1986年に国連環境計画(UNEP)と世界気象機関(WMO)が共同設立した国連組織。
世界の科学者が多数集まり、1990年に地球温暖化に関する報告書』を発表。1995年に『第2次評価報告書』、2001年に『第3次評価報告書』、2007年に『第4次評価報告書』、2013年に『第5次評価報告書』を発表した。そして2021年に『第6次評価報告書』を発表した。
2007年度のノーベル平和賞にアル・ゴア氏と共に選ばれた。

第6次評価報告書では、気候変動(地球温暖化)の現状を以下のように纏めています。ただし私の独断で纏めていますが・・・・。

 

IPCC第6次評価報告書の概要

・・・・

人間の影響が大気、海洋及び陸域を温暖化させてきたことには疑う余地がない大気、海洋、雪氷圏及び生物圏において、広範囲かつ急速な変化が現れている。

最近40年間のうちどの10年間でも、それに先立つ1850年以降のどの 10年間よりも高温が続いた。

21世紀最初の20年間(2001~2020年)における世界平均気温は、1850 ~1900年の気温よりも 0.99[0.84~1.10]℃高かった。

2011~2020年の世界平均気温は、1850~1900年の気温よりも 1.09 [0.95~1.20]℃高く、また、海上(0.88[0.68~1.01]℃)よりも陸域(1.5[1.34~1.83]℃)の昇温の方が大きかった。

IPCC第5次評価報告書以降、世界平均気温について推定された上昇は、主に 2003~2012 年以降の更なる温暖化(+0.19 [0.16~0.22]℃)   によるものである。

・・・・

気候システム全般にわたる最近の変化の規模と、気候システム の現在の状態は、何世紀も何千年もの間、前例のなかったものである。

・・・・

人為起源の気候変動は、世界中の全ての地域で、多くの気象及び気候の極端現象に既に影響を及ぼしている。

熱波、大雨、干ばつ、熱帯低気圧のような極端現象について観測された変化に関する証拠、及び、特にそれらの変化を人間の影響によるとする原因特定に関する証拠は、第5次評価報告書以降、強化されている。

気候変動は既に、人間が居住する世界中の全ての地域において影響を及ぼしており、人間の影響は、気象や気候の極端現象に 観測された多くの変化に寄与している。

・・・・

人間の影響は、1990年代以降の世界的な氷河の後退と1979~  1988年と2010~2019年との間の北極域海氷面積の減少(9月は約40%、3月は約10%の減少)の主要な駆動要因である可能性が非常に高い。

・・・・

世界全体の海洋(0~700m)が1970年代以降昇温していることはほぼ確実であり、人間の影響が主要な駆動要因である可能性が極めて高い。人為的な 二酸化炭素 の排出が、現在進行している外洋域表層海水の世界的な酸性化の主要な駆動要因であることは、ほぼ確実である。

・・・・

世界平均海面水位は、1901~2018年の間に0.20[0.15~0.25]m上昇した。

その平均上昇率は、1901~1971年の間は 1.3[0.6~2.1]mm/年だったが、1971~2006 年の間は 1.9[0.8~2.9]mm/年に増大し、2006~2018 年の間には3.7[3.2~4.2]mm/年に更に増大した(確信度が高い)。

少なくとも 1971 年以降に観測された世界平均海面水位の上昇の主要な駆動要因は、人間の影響であった可能性が非常に高い。

・・・・

世界平均気温は全ての排出シナリオにおいて、少なくとも今世紀半ばまでは上昇を続ける。向こう数十年の間に二酸化炭素及びその他の温室効果ガスの排出が大幅に減少しない限り、21世紀中に、地球温暖化は 1.5℃及び 2℃を超える。」

・・・・

気候システムの多くの変化は、地球温暖化の進行に直接関係して拡大する。

この気候システムの変化には、極端な高温、海洋熱波、大雨、いくつかの地域における農業及び生態学的干ばつの頻度と強度、 強い熱帯低気圧の割合、並びに北極域の海氷、積雪及び永久凍土の縮小を含む。

・・・・

★特筆すべきこと

出典:IPCC第5次評価報告書 2013

第5次までは、何%という(不確実性の要素を含んだ)確率の数字で「人為的な可能性がだんだん高くなっていることを」示してきました。

ただ6次で特筆すべきは、第6次では不確実性の要素が外れて

「人間の影響が大気、海洋及び陸域を温暖化させてきたことには疑う余地がない

と言い切ったことです。

また同報告書では地上気温の上昇だけでなく、海の熱吸収や氷の減少などを総合的に評価した表現になっています。

ちなみに、2010年から2019年にかけて人間活動の寄与は+1.07℃に対して観測された変化は+1.06℃だったそうです。

 

ご注意

※気候変動と気候変化について

◆気候変動とは?

気候の平年状態からの偏差のこと

=climate variation(climate variability)

◆気候変化とは?

気候の平年状態が長期的に変化すること

=climate change

そういう理由で、気象学的には気候変化が正しいという人がおられます。

実は私もそう思います。

そういう理由だとしても、気候変動適応法ができたこともあり、今後も気候変化ではなく気候変動という用語が使われると思われます(ただ突然変更されることがあるので、頭の隅に置いていてくださいね)。

次回は、気候変動(地球温暖化)の影響について見てみたいと思います。


特別コラム 第26回「地球にやさしい会社」について

 

2022年5月27日

 

こんにちは。ATC環境アドバイザーの立山裕二です。これまでエコプラザカレッジで環境経営やSDGsなどについてセミナー講師を務めさせていただいておりました。

今回は、「地球にやさしい会社」について前号よりも少し詳しく考えてみたいと思います。

■やさしいについて

「人にやさしい」とか「地球にやさしい」という表現が多く使われています。
しかし「何となく分かるようで分からない」という人も多いのではないでしょうか。

マーケティングの世界では、「あいまいな表現は消費者保護の観点から避けるべきだ」として「やさしい」という言葉が消えつつあります。「地球にやさしいなんて傲慢だ」という声もよく聞きます。

しかし本来「やさしい」とは、「周囲や相手に気を使ってひかえめである、つつましい、おだやかである、素直である、情け深い」、というように「思いやり」を表す言葉です。その中には、傲慢さなど少しも感じません(少なくとも私には)。

古語辞典で「やさしい」を調べてみると、「やせるほど恥ずかしい」と書いてありますこれが日本古来の意味です。やせるほど恥ずかしい気持ちで「どうしよう、今できることは何だろうか」と悩み、苦しみ、そして心から「憂いた人」。このような人を「優しい人」と言うのでしょう。

つまり、「地球にやさしい」とは、地球に対する「(環境汚染や利己主義を蔓延させて)やせるほど恥ずかしい」という気持ちであり、「地球に優しい人」とは、「地球に対してやせるほど恥ずかしい、と憂いたすえに、本当の思いやりを持つようになった人」と言うことができると思います。

この特集では、ひんぱんに「地球にやさしい」という表現が出てきますが、このような意味だとお考えください。

■地球にやさしい会社とは?

地球にやさしい会社とは、前号の表現を借りると「地球に対して(環境汚染や利己主義を蔓延させて)やせるほど恥ずかしい、と憂いたすえに、本当の思いやりを持つようになった人たちが働いている会社」ということになります。

そういう意味で、「①地球環境問題に真剣に取り組んでいる会社」だけでなく、「②社会貢献を経営理念の最優先に掲げて実践している会社」、「③倫理的・道徳的・宗教的な使命感から、いわゆる“足るを知る経営”を実践している会社」などが「地球にやさしい会社」といえると思います。

これはSDGsカンパニー、つまり「サステナブルカンパニー」のイメージに近いと言えます。サステナブルカンパニーとは、①経済的にきちんと利益を上げ(経済貢献)、②環境に対して配慮し(環境貢献)、③社会に貢献(社会貢献)している会社のことです。

ちなみにこの①~③をまとめて「トリプルボトムライン(Triple Bottom Line)」といい、企業評価のための重要な指標になっています。近年、環境面だけを取り上げる「環境報告書」よりも、トリプルボトムラインを網羅した「サステナブルレポート(報告書)」が重視されるようになってきました。ここ数年は「SDGs報告書」を発行する会社や団体が増えてきました。

◆「サステナブル」について

ここで「サステナブル(Sustainable)」とは、「持続可能」という意味で使われることが一般的です。この言葉は、1987年に国連「環境と開発に関する世界委員会(通称:ブルントラント委員会)」が発表した『Our Common Future』という報告書で使われた「サステナブル・ディベロップメント(Sustainable Development)」に基づいています。

サステナブル・ディベロップメントは「持続可能な開発」と訳されていますが、同報告書は「将来の世代が自らの欲求を充足する能力をそこなうことなく、今日の世代の欲求を満たすような開発をいう」と定義しています。

◆「開発」とは?

もともと『開発』は仏教用語で「かいほつ」と読むそうです。以前は、「その土地やその人の特長を活かしきる」という意味で使われていたそうです。

現在使われている「開発」は本来「乱開発」と呼ばれるべきもので、「乱開発」によって、土地が根こそぎにされていることは衆知の通りです。私たちは、その地方特有の自然を活かした本当の意味での「開発」と、自然を根こそぎはぎ取り、巨大な建造物にとって変わらせる「乱開発」とを混同しているように思います。

◆「地球にやさしい会社」=「自己実現した会社」

報告書で「欲求」と言う言葉が使われていますが、ここで言う「欲求」とは何を意味するのでしょうか。

心理学者のアブラハム・マズローは、人間の欲求は5段階のピラミッドのようになっていて、1段階目の欲求が満たされると順次1段階上の欲求を志すというものです。

マズローによると人間の欲求の段階は、①生理的欲求②安全の欲求③親和の欲求④自我の欲求⑤自己実現欲求からなっているとしています。

現在の地球環境の状況を見ると、②の安全の欲求どころか①の生理的欲求すら満たされていない人が多数存在しています(とくに途上国において)。また、このまま何も手を打たなければ、現在③~⑤に居る人の大部分も、真っ逆さまに最下段まで転げ落ちてくることになるでしょう。

このように考えると「今日の世代の欲求を満たすような開発」とは、破壊を意味する「物質的開発」ではなく、人間性や心の豊かさを開発する「精神性の開発(かいほつ)」でなければならないことが分かります。

◆自己実現の3条件

国際基督教大学の石川光男氏は、「自分らしく」「自分から」「まわりのために」を自己実現の3条件と明言されています。

「自分らしく」とは、人の真似をしないで個性を発揮すること。「自分から」とは、自分の努力で自主的に行動すること。そして「まわりのために」とは、自分の長所と特性を生かした「自分らしさ」を社会と自然と文化という3つの環境のために、積極的に役立てる生き方を自ら進んで行うこと、と述べておられます。

ここでいう「地球にやさしい会社」とは、まさに「自己実現した会社」ということができると思います。

◆ドイツは環境先進国、日本は環境後進国?

昔、あるドイツ人紳士から叱られたことがあります。

「日本人は、どうして環境についてドイツに学びに来るのだ。”ドイツは環境先進国”と思いこんでいるのでないのかい。

今、ドイツがそういう評価をもらっているのは、日本のお陰なんだよ。ドイツはかつて酸性雨によって、シュバルツバルトという森を失ってしまった。

今あるのは、全部人工林だよ。そこでようやくドイツ人は環境に目覚めたんだ。どうすればいいか模索していたとき、東洋の自然観に触れたのだ。それが循環という考え方だ。それをもとにしてできたのが、循環経済法という法律なのだ。そのほかにも”もったいない”とか、”足るを知る”という思想も学んだのだ。

日本はドイツよりも環境に関しては先進国だ。

その証拠に、今ドイツ人が実践していることは、すべて数十年前には日本で当たり前のことだったろう。量り売り、はだか売り、廃品回収・・・・それに、ドイツではマイバックを持ち歩いているが、日本には風呂敷という何にでも使える素晴らしい文化があるじゃないか。

日本人はもっと自信を持つべきだ。ドイツに来るのはいいが、その前におじいちゃん、おばあちゃんから学びなさいと。

歴史的事実の真偽はともかく、私は大きなショックを受けました。何か「とてつもなく大切な忘れ物」をしていたようで、深く反省しました。忘れていたことを思い出そうともがいていたまさにその時、あの阪神・淡路大震災が発生したのです。

◆ライフラインが切れた?

阪神・淡路大震災のときにマスコミは、「ライフラインが切れたので、被災地は大変な困難に直面している」と報道しました。しかし、私たちは避難所の中で「このコメントは何か変なのではないか」と話し合っていました。

ライフラインとは、「人と人とのつながり、人と自然とのつながり、自然と自然とのつながり、これらすべてのつながり」のことを言います。つまり「生命のつながり」です。しかし、あのとき切れたのは「電線などのケーブルライン、水道管やガス管などのパイプライン」、つまり切れたのは『物』なのです。

私たちは、「真のライフライン(生命のつながり)がとっくに切れていたために、あのような大惨事になったということを自覚すべきだ」と反省しました。後で分かったことですが、多くの被災者が同じように感じていたようです。

そして、「生命のつながり」が至るところで切れていることが、地球環境問題の根本原因ではないかと気づいたのです。いじめや差別なども同源だと思います。『生命のつながり』こそが、「とてつもなく大切な忘れ物」の正体だったのです。

先のドイツ人紳士は、このことを伝えたかったのではないかと思います。

ただし「つながり」とは、「信頼や愛」のことであって「束縛やしがらみ」ではありません。念のため。

次回からは、私が勝手に名づけた「グリーンクリエイターを育てる『環境共育』」について考えていきたいと思います。


ちょうど一回り前(12年前)の記事がFBの

思い出欄に表示されました。

TBSラジオ『大沢悠里のゆうゆうワイド』

「環境キャンペーン(今日よりちょっといい

明日を)」の録音です。

まるでつい最近のように感じますが、

もうひと昔のことなのですね。

数百万人にお聞きいたけたとのこと

ですが、今でいうSDGsとも関連して

います。

少しは世の中に影響をもたらしているの

でしょうか?

思い出としては④が紹介されていますが、

お時間のある方は↓をお聞きいただければ

幸いです。

全部で1時間ほどですが、私が重要だと

思っていることが網羅されています。

http://noukori.web.fc2.com/yuyuwide.html

📷📷2年前この日の思い出を見る

アクティブ

立山 裕二

2020年5月21日 ·

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■もし良かったらお聴きください④

TBSラジオ『大沢悠里のゆうゆうワイド』

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「環境キャンペーン(今日よりちょっといい...

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◎「あなたの成長がSDGsを実現する!」104回目

前回の続きです。

●黄金の惑星

遠い銀河の果てに、すべてが黄金でできた

惑星がある。

山も、森も、土地も、川も、海も金色に

光り輝いている。

野山を駆け回る動物たちも金色の毛皮で

覆われている。

住民たちは、金色の衣服をまとい、金色の家に

住んでいる。

21世紀末、環境の悪化、資源の枯渇から

破局を迎えた人類は地球から脱出した。

何世紀もの間宇宙をさまよった後、

ついに人類は黄金の惑星を発見した。

地球人が驚嘆して叫んだ。

「何と素晴らしい、何と豊かだろう、

この惑星の住民はさぞかし幸せだろう」。

地上に降りると、たくさんの住民が

「宇宙船だ!」、「宇宙人もいる!」と

大騒ぎしながら集まってきた。

ある住人が驚嘆の声を上げた。

「この宇宙人たちは、鉄、アルミ、チタン、

プラスチック、炭素、タンパク質、何でも

持っている。

そして驚いたことに、まったく価値のない

金(ゴールド)は全然使っていない」。

別の住人が叫んだ。

「何と素晴らしい、何と豊かだろう、

この宇宙人たちは さぞかし幸せだろう」。

以前、こんなストーリーを創ってみました。

私たちは素晴らしい希少な(独自の)素質や能力、

そして家族と友人を持っていながら、それに気づ

かず、他人の持っているものをうらやみます。

金やダイヤモンドは「希少」ゆえに価値がある

のです。

もし、すべてが黄金ならば、金は珍しくも

何ともありません。

ところで、「周囲にたくさんあるにも関わらず、

私たちにとってとてつもなく価値の高いもの」

は何でしょうか。

それは「空気」と「水」そして「いのち」ですね。

「空気」も「水」も、周囲にたくさんあります

(実際は有限ですよね)が、私たちはほとんど気に

留めることはありません。

それらが存在しなければ、確実に「いのち」が

消えてしまうのに・・・・。

この「いのち」も私たちの周りに満ちています。

しかし環境破壊によって、また開発の名の下に、

次々に絶滅しつつあります。

「いのち」がなくなると、やがて私たち人類も

消えてしまうことになるのに・・・・。

しかし、ゲーテは言います。

「空気と光と友人の愛。これだけ残っていれば、

気を落とすことはない」と。

私たちは、少し立ち止まって、「水」や「空気」

そして「地球」について考えてみることが必要

ではないでしょうか。

次回に続きます。


◎「あなたの成長がSDGsを実現する!」103回目

前回の続きです。

●みんな幸せ

世間を見渡すと、

「過去のことをあれこれ考えて悔やみ、未来を

想像して心配する人」

がかなり多いことに気づきます。

「過去のことを思い出してクスッと笑い、

未来を思ってワクワク胸をときめかせる人」は

案外少ないように思います。

前者は、「今の自分を幸せだと思っていない人」

の特徴です。

彼ら(彼女ら)は、「いつかきっと幸せになれる」

と期待しますが、「でも、ダメかもしれない」と

否定してしまいます。

仮に、未来のある日に幸せを実感していると

しましょう。

その一瞬前はどんな気持ちでしょうか。

不幸な気持ちだったら、次の瞬間に幸せになる

ことはあり得ません。

だから、幸せを実感する一瞬前も幸せを実感

しているはずです。

では、その1日前は・・・・、その前は・・・・。

そう、今ここで幸せを実感していない限り、未来永劫

幸せを実感することはできないのです。

では「今ここで幸せを実感する」にはどうすれば

いいのでしょうか。

まずは、

「今この瞬間に幸せを実感していない自分がいる」

ということを受け入れ、

「これも必要、必然、最善なんだ」と

確信することです。

今幸せを実感できないのは、自分の成長にとって

意味があるからだと考えればいいのです。

事実、そうなのです。

次に、「幸せを実感したことがある人だけが、

幸せでないことを実感できる」ということを

認めることです。

「今、幸せでない」と思えるということは、

「かつて、幸せな気分を味わっていた」という

ことを証明しています。

でないと、どうして「今、幸せでないこと」が

分かるのでしょうか。

そう、かつての幸せな気分と比較しているの

です。

いや、かつてのではありません。

今、心の奥底にある幸せと比較しているのです。

だから、心の奥底にある幸福感に焦点を合わせれば、

誰でも今この瞬間に「幸せを実感」することが

できるのです。

心の奥底にある幸福感とは、

「今、生きている」

「今、息をしている」

「朝起きたら、目が見えた、耳が聞こえた・・・・」

「生きているから悩める」

「幸せを実感できない気持ちを味わえるのは、

生きている間だけだ」

などいくらでもあります。

私たちは、生きているだけで価値があります。

存在するだけで意味があるのです。

もうひとつは、

「夢に執着している自分がいないか」

を点検してみることです。

夢と現実のギャップが大きいと、幸せを実感する

ことは難しいでしょう。

夢を持つことは素晴らしいことです。

しかし、それに囚われたり、執着したりすると、

不安や苦しみを覚えます。

このような場合は、いったん「夢」を見直して

みることです。

その夢は、

「誰かから押しつけられたものではないのか」

「人によく見られたいからではないのか」

「本当に心の底から湧き上がってきたものなのか」

などを点検してみましょう。

やっぱり「夢」は、ワクワク・ウキウキするもの

でなくっちゃね。

次回に続きます。


◎「あなたの成長がSDGsを実現する!」102回目

前回の続きです。

◆幸せについて

お金と同様、

「幸せとは何か?」

「経済成長イコール幸せか?」など、

「幸せ」についてもよく話し合われています。

もこのテーマも環境問題と(SDGsとも)切っても

切り離せない関係がありますので、ここで少し

考えてみましょう。

●板子1枚下は幸せ

私は今、最高に幸せです。

最愛のパートナー、子宝、友人にも恵まれ、

大好きな仕事をしながら本も書かせていただいて

います。

ポリオ(小児麻痺)に感染し右足が不自由になる

など、これまでにも様々な出来事がありました。

でも、それらがすべて現在の幸せに結びついて

いることを実感しています。

「もし、お金がもっとあれば、好きなものを

いっぱい買えるのに」、

「もし大きな家に住むことができれば、

たくさんの人を呼んでパーティーが開けるのに」、

「もっと仕事が成功すれば多くの人から尊敬を

得られるのに」

・・・・。

このような「もし・・・・ならば・・・・できるのに」

という願望を私は持っていないといったらウソに

なります。

しかし、現在の幸せに比べたら取るに足らない

ように感じています。

というのは、「もし・・・・ならば・・・・できるのに」

というのは、幸せというものが未来やどこか

遠いところに存在すると錯覚し、その幸せを

探し求めるあまり「今を生きていない」と

思えるからです。

私は、

「幸せは求めるものではなく、感じるもの」、

「幸せは探すものではなく、今ここにある

ことに気づくもの」

と思っています。

幸せや不幸そのものは存在しません。

「幸せと思う心」、「不幸と思う心」だけが

存在するのです。

私たちは、幸せという心の中の大海原を航海

している旅人です。

小舟だからといって遊覧船をうらやみ、遊覧船

だからといって、豪華客船を望んでいます。

私たちが、「もっともっと」という欲望が

あろうとなかろうと、幸せという心の中の

大海原は相変わらず「今ここ」に存在している

のです。

「板子1枚下は地獄」ではなく

「板子1枚下は幸せ」であることに気づいたとき、

私はさわやかな開放感に包まれました。

次回に続きます。


◎「あなたの成長がSDGsを実現する!」101回目

前回の続きです。

●実がなれば実を放す

懐に数千万円の貯金通帳を抱えて、お年寄りが餓死。

こんな記事が新聞に載ると、何とも哀れで

いたたまれない気持ちになります。

しかし「かわいそう」と他人事としてすませる

訳にはいきません。

お年寄りの場合は、お金儲けが目的ではなく、

「きっとお金さえあれば、孤独がされるだろう」

と、すがるような想いで蓄財するのでしょう。

いや、お年寄りに限らず、多くの人がこれと

五十歩百歩のことをしています。

寂しさを紛らすために「お金を儲けていっぱい

蓄えること」が人生の目的となり、それを有効に

活用できなくなってしまう人も多いと聞きます。

もちろん、お金を儲けること自体は善でも

悪でもありません。

ただ、「蓄えたお金をどうするか」だけです。

お金は使わなければ単なる紙くずであり、

金属くずです。

お金はエネルギーです。

エネルギーは高いところから低いところに

流れます。

エネルギーは滞ると腐ります。

このことは自然が全部教えてくれています。

たとえば、果樹は実った果実をどうしている

でしょうか?

リンゴの樹でもミカンの樹でも、実がなれば

必ず手放しています。

だれのためでしょうか。

それは、自分を含めたすべてのためです。

もし、なった実を手放さずにずっと抱えていたら、

実は腐り、そして自らも枯れてしまうでしょう。

しかし、自然の樹木は決してこのような愚を

おかしません。

なった実を手放して地面に落とすことで、肥沃な

土を創るとともに種子を芽吹かせます。

また、鳥や昆虫などにその実を分け与えることに

よって、生態系を豊かにします。

樹木そのものは移動できませんが、移動可能な

他の動物たちと実を分かちあうことで種子が

運ばれ、別の場所に子どもが生まれます。

この繰り返しが営々と行われ、やがて樹木が

生い茂る森となり、強固な生態系が形成される

のです。

そこでは数多くの生物が多様性を維持しながら、

それぞれが命の輝きを放っています。

さて私たち人間は、蓄えた実である『お金』を

どうすればいいのでしょうか。

もはや言うまでもありませんね。

「自分で稼いだお金だ。何に使おうと自由だ」

と言えばそれまでですが、人間も自然の一員です

から、天理(自然の道理)には逆らえないのです。

それでも天理に逆らって、自分だけのために

貯めこむか、天理に従ってすべてのために手放すか。

私としては、天理に従い、大きな森の一員として

命を輝かせ続けたいと思います。

そしてこれが、自然から学ぶということであり、

環境問題を解決するために必要な「お金」に

対する大切な考え方だと思っています。

次回に続きます。


◎「あなたの成長がSDGsを実現する!」100回目

前回の続きです。

◆お金について

地球環境問題について議論していると、

必ずと言っていいほど「お金」が話題に

なります。

「お金に対する際限ない欲望が、環境破壊

などの社会問題の原因だ」

「私たちが銀行や郵便局に預けたお金が、

途上国の環境破壊に使われている」

「お金は幸せをもたらすか?」

など、もはや「お金」抜きでは環境問題を

語れなくなっています。

ここでは難しい経済理論ではなく、

「お金の価値」について考えてみたいと

思います。

▽ ▽ ▽ ▽ ▽ ▽ ▽ ▽ ▽ ▽

●1億円と100円、どちらの価値が大きい?

私たちは、

「今どき100円なんて何の役にも立たない」、

「1億円の財産があれば寝て暮らせるのに」

というように、お金のありがたさを金額の面

だけで判断することがよくあります。

しかし、100円と1億円とでは本当に1億円の

方が価値が高いのでしょうか。

この意味に気づくチャンスが25年ほど前に

ありました。

夢の中での出来事です。

その日は朝から灼熱の太陽が照りつける

真夏日でした。

私は独りで砂漠を歩いていました。

果てることもなく続く砂漠の中で、汗だくに

なって前進を続けていました。

突然、激しいノドの乾きを感じました。

そういえばここ数日、一滴の水も飲んでは

いません。

水筒の水は飲んでしまいました。

オアシスがないか必死に探しましたが、

痕跡すらありません。

このままでは日干しになって死んでしまう。

そう覚悟しました。

絶望に打ちひしがれていたその時、前方に

清涼飲料水の自動販売機があることに

気づきました。

「そんなばかな」と思いましたが現実に

そこに存在するし、電気も流れてちゃんと

動いているようです。

「天の恵み」とばかりに駆け寄り、財布の

中から100円玉を取り出そうとしました。

ところが財布の中身は空っぽで10円玉すら

ありません。

思い直してリュックサックの中を見ると、

何と1万円札がぎっしりと詰まっていた

のです。

おそらく1億円以上はあったでしょう。

狂喜乱舞して1万円札を取り出し、自動

販売機に入れようとしたのですが、

あろうことか千円札までしか受け付けない

のです。

「こんなにお金があるのに・・・・なぜ・・・・」。

途方に暮れてその場に座り込んでしまい

ました。

そのとき、みすぼらしい身なりの老人が

通りかかり、ぜいぜいといでいる私に声を

かけてきました。

「ああ、100円玉ならワシのを使ったら

いい。ただし、おぬしが持っている1億円

と交換じゃ。

こんな時は100円玉の方が価値があるから

のう。

だが、どちらも<いのち>に比べりゃ、

タダみたいなもんじゃ」。

次回に続きます。


◎「あなたの成長がSDGsを実現する!」99回目

前回の続きです。

◆子どもたちが、お年寄りを尊敬するコミュニティ

大切な「いのちのつながり」を取り戻すためには、

「家族のきずな」を強くすることが必要です。

その中でも、「お年寄り(尊敬語として使って

います)との絆」の復活が最優先課題だと思います。

早くしないと、大いなる知恵が失われてしまいます。

しかし、核家族化・少子化が進む中で、家庭単位

では実現が難しくなっています。

「だからできない」とあきらめずに、「どうしたら

できるか」を考えましょう。

たとえば、地域のコミュニティで「お年寄りと

子どもたちとの出会いの場づくり」のイベントを

実施してはいかがでしょうか。

地域のお年寄りと子どもたちに集まってもらい、

お年寄りに昔の知恵を語ってもらうのです。

環境に関係することだけでも、

「物を大切に使う」

「物々交換する」

「買い換える前に修理・修繕する」

「量り売りやはだか売りの方法(お豆腐屋さん・

ロバのパン屋さん・置き薬・・・・)」

「風呂敷の使い方」

・・・・もっともっとたくさんありますね。

子どもたちは、環境先進国といわれるドイツや

スウェーデンなどで今行われていることは、

はるか昔にお年寄りが実践していた(昔は

当たり前だった)ことを知り、びっくりする

でしょう。

「風呂敷がマイバッグよりもはるかに多様な

使い道がある」ことにも驚くでしょう。

「おじいちゃん、おばあちゃんてカッコイイ!!!」。

子どもたちがお年寄りを尊敬し始めます。

街のあちらこちらで、子どもたちとお年寄りとの

挨拶が始まり、お年寄りと子どもが楽しく語らう

ことが多くなります。

街中から笑い声が聞こえます。

こうして素晴らしいコミュニティが誕生します。

住民同士の仲がいい街は、ゴミを拾いあい、

仲が悪いと押し付けあいます。

「ゴミが少ないところにはポイ捨てしにくい」

と言うのは人間の心理です。

結果として環境も美しくなります。

これが私の「環境共育ビジョン」です。

皆さんの地域でも、「お年寄りと子どもたちが

仲良く集う街づくり」を始めてみてはいかが

でしょうか。

お年寄りが役割を見つけて生き甲斐を感じ、

子どもたちがお年寄りを尊敬し、心からいたわる。

子どもたちが受け継いだ「知恵」は、

ずっと後世まで受け継がれていくことでしょう。

次回に続きます。

 


◎「あなたの成長がSDGsを実現する!」98回目

前回の続きです。

●自由に伸び伸びと・・・・○×ではない教育を!

イソップ童話に限らず、いろんな童話や昔話で

試すのもおすすめです。

また環境問題だけでなく、福祉問題やイジメの問題

などにも応用してみてください。

ただ、ひとつだけ守っていただきたいのは、

「自由に伸び伸びと表現する」

ということです。

ブレーンストーミングのように、

「批判しない」

「自由奔放を歓迎する」

「他人のアイデアに乗っかる」

を奨励して、たくさんのアイデアを出しやすい

雰囲気をつくってください。

これは「創造力活性化法」そのものですね。

さて、皆さんは「自由に」という言葉を聞いて、

どのように感じましたか。

「楽な気持ち」「空を飛んでる感じ」「幼い頃に

戻った感じ」・・・・色々あるでしょうね。

ところが、若い人たち(もちろん高齢者も)の

中には「自由に」と聞いて、「どうしていいか

分からない」と戸惑いを感じる人がかなり多い

のです。

紙を配って「どんなことでも自由に書いて

ください」というと、「縦書きですか、

横書きですか?」「字数は?」「絵を描いても

いいのですか?」・・・・。

「自由に」と言っているのですけどね。

「・・・・・・」と考え込んでいる人もいます。

また一方で、「自由」と「自分勝手(わがまま)」

とを間違えている人もいます。

これは若者に限らず、私も含めた大人にも言える

ことです。

ちなみに「自由」とは、

「自分を理由とする」

「他人や、物事や天気などのせいにしないで、

すべての原因をまずは自分に求めてみる」

という意味です。

つまり「自己責任」を前提にした言葉なのです。

どうしてこんなことになってしまったのでしょうか。

○×教育の弊害。知識教育の行き詰まり。

いくらでも原因は考えられますが、教育のあり方

自体に問題を含んでいることは否定できません。

知人がテストで「自由に書いてください」と出題

したところ、校長先生に注意されたそうです。

「自由に書きなさいという出題は困るよ。

教師の主観で点が決まってしまうからね。

○×問題か、5者択一問題か、とにかく正解が

ハッキリしている問題を出しなさい」と。

これが一部の学校だけの話であることを心から

祈りたいと思います。

グチや犯人探しは止めましょう。

それよりも、今すぐできることを実行していく

ことが大切です。

出題者が答えを知っている問題を出し、それを解く

者がいて、それを誉め称える。

これも社会にとって必要なのでしょう。

しかし、それだけではない自由な発想も

社会には必要なはずです。

政府に対策を求めることも大切ですが、

まずは地域で改革への第一歩を踏み出し

ましょう。

学校を含めたコミュニティー全体で、

多くの人が知恵を出し合い、理想的な教育(共育)

ビジョンを創りあげたいものです。

そしてそのビジョンを実現するために、

今できる具体案を作成し、実行するのです。

前述の「イソップ童話」を題材にした

創造力活性化法が、具体策のひとつとなり得る

と思うのですが、いかがでしょうか。

次回に続きます。


◎「あなたの成長がSDGsを実現する!」97回目

前回の続きです。

★アリとキリギリス

次は、有名な「アリとキリギリス」の話です。

まずはあらすじから。

暑い夏の日。

アリたちは、みんなで食べ物を探しては

せっせと家に運んでいます。

それを見ていたキリギリスたちは、「そんな

ことをしてもいくらでも食べ物はあるさ。さあ、

今を楽しもうぜ」と、涼しい木陰で毎日毎日

歌い踊っています。

寒い冬が訪れました。

野原にも森にもまったく食べ物はありません。

でも、アリたちは夏の間にたくさんの食べ物を

蓄えていたので、ぜんぜん困りません。

トントンと弱々しいノックの音がしました。

アリの家に誰かがやってきたようです。

ドアを開けると、痩せこけたキリギリスが、

今にも倒れそうに立っていました。

アリが皮肉たっぷりに言いました。

「あれ、今日も楽しく歌ったり、踊ったりして

たんじゃないの?」。

キリギリスは「おなかがすいてそれどころでは

ありません。ボクたちも、夏の間にちゃんと

食べ物を集めておけばよかったのに・・・・」と蚊の鳴く

ような声でいいました。

そしてバッタリと倒れてしまいました。

この話も、最近は「最後には、アリがキリギリスに

食べ物を分けてあげた」という話になってるようです。

アリとキリギリスにも多くの変形があるようですが、

私も次のように書き換えてみました。

★新・アリとキリギリス

暑い夏の日。

アリたちは、みんなで食べ物を探してはせっせと

家に運んでいます。

それを見ていたキリギリスたちは、

「そんなことをしてもいくらでも食べ物はあるさ。

さあ、今を楽しもうぜ」

と、涼しい木陰で毎日毎日歌い踊っています。

寒い冬が訪れました。

野原にも森にもまったく食べ物はありません。

でも、アリたちは夏の間にたくさんの食べ物を

蓄えていたので、ぜんぜん困りません。

トントンと弱々しいノックの音がしました。

アリの家に誰かがやってきたようです。

ドアを開けると、痩せこけてグッタリとなった

キリギリスが、今にも倒れそうに立っていました。

アリが皮肉たっぷりに言いました。

「あれ、今日も楽しく歌ったり、踊ったり

してたんじゃないの?」。

キリギリスは「おなかがすいてそれどころでは

ありません。ボクたちも、夏の間にちゃんと

食べ物を集めておけばよかったのに・・・・」と

蚊の鳴くような声でいいました。

そしてバッタリと倒れてしまいました。

アリたちがキリギリスたちのことを話し合って

います。

「なんてバカなんだ。夏の間にちゃんと働かない

からこういうことになるんだ。自業自得だよ」

「そうだそうだ」。誰も同情する者はいません。

そのとき、アリの長老が静かに語り始めました。

「そんなことでは立派なアリにはなれないよ。

よく聞きなさい。キリギリスは自分たちが

餌をいっぱいとったら、ほかの生き物の餌が

なくなってしまうことを知っているんだ。

自分たちがとった餌の分だけ他の生き物に

まわらなくなってしまうからね。

しかも彼等が死んだ後、彼等は自然の働きで

栄養たっぷりの土になるんだ。

その土はボクたちアリの食べ物を育てるんだよ。

つまり、ここに蓄えられた食べ物はキリギリス

そのものなんだよ。

彼等は、自分たちの役割を立派に果たして

いるんだよ」

アリたちは、深く反省しました。

「キリギリスさん、バカにしてごめんなさい。

これからはボクたちも食べ物を独り占めしないで、

他の生き物にも分けてあげます」。

そしてアリが言いました。

アリがとう!

イソップ童話は、話して聞かせる物語ではなく、

そのストーリーから何を読みとるか、

何に気づくか、その後の展開をどう予測するか、

などを子どもたちに考えさせる仕掛けになって

いるのではないでしょうか。

現に、これまでに様々な解釈がなされてきた

ようですし、この「アリとキリギリス」は

原本では「セミとアリ」だったそうです。

こう考えると、イソップ物語は

「子ども(もちろん大人も)の気づきや潜在力を

引き出す」

という真の教育にふさわしい題材といえる

と思います。

私もたまにワークショップに取り入れていますが、

みんなでワイワイ言いながらひとつの作品を創り

あげるのは楽しいし、すごく盛り上がりますよ。

皆さんも、子どもたちと一緒になって、色々な

バリエーションのイソップ物語を創作して

みませんか。

次回に続きます